第40話

 頬に、何か生温いものが触れた。そんながした。


 ふっ、と瞼の開く感覚に少しの煩わしさを覚える。ヒリューニャはゆっくりとその視界に世界を映した。


 世界は——『絶望』に満ちていた。


 もうめちゃくちゃだ。


 家族との想い出が詰まった母屋は半壊し、見る影もなくなっていた。何もかも、壊れてしまった。


 全身に打ち身を受けたような痛みが走り顔を歪める。痛みの正体は体中の傷で、中でも、左腕はもはや使い物になりそうにないほどに赤く染まり、そこだけは不気味なほどに痛みを感じなかった。


 先ほど触れた“生温い”何かの正体は、この国では降ることが珍しいとされる雨だった。


 不意にヒリューニャは顔を横に向けた。何を思ったのかは分からない。何を感じたのかも分からない。ただ本能がそうしろと視線をそちらに向かせたのだ。

 彼女の視線の先にあったもの——それは、全身を赤く染めた、変わり果てた姉の姿だった。


「——ッナーシャ‼」


 体が痛みで悲鳴を上げている。そんなことを気にしていられるほど、今の彼女に心の余裕は無かった。痛みを無視し、一目散にナーシャを目掛けて駆ける。

 ナーシャは“ゼヒッゼヒッ”と息も絶え絶えになりながら、近づくヒリューニャの存在にわずかに視線を動かした。その瞳の色は鈍色をしており、もうこの白銀世界を映してはいない。ナーシャの顔からは血の気が引き、今にも命のともしびが失われそうな状態だった。

 ヒリューニャはナーシャの傍に寄り、動揺をなるべく悟られぬよう自分の体温を分け与えるように右手で彼女の手を包み込むように握る。その感覚に少しだけ反応したナーシャは儚げに微笑んだ。


「……あら……ヒリューニャ……? ……?」

「ナーシャ……。うん、ここにいるよ」

「……そう。……ふふ、変なの……。体が、雪のように冷えていくみたいなのに、なにも……感じないの……」


 まるでこの国とひとつになっていくみたいだわ。


 その声はか細く空気中に溶けてしまいそうなほどに掠れていたのに、妙に聴覚に残ったのは何故だろうか。その答えを知る術が、今失われつつあった。


「……が、当たったのね。……私は、ただ、あのひとに……“春”を見せてあげたかった……ただ、それだけだったのに……なあ……」


 ナーシャの瞳から、一筋の涙が静かに零れ落ちる。その涙の美しさは、思わず息を呑むほどに綺麗だった。初めて、彼女の本音を聞けた気がした。


「やはり、春竜様は……。常人である私たちが、容易に求めては……いけなかったのよ……」

「……そうだね」


 彼女は心の底から後悔をしているようだった。自らが招いた結果に責任を感じ、それを償うことが不可能だと悟り、再び涙を零した。


「ヒリューニャ……ごめん、ね……? こんな、不甲斐ない……姉さん、で……っ」


 ヒリューニャの右腕を、いったいどこにそんな力が残っているのだろうかと思うくらいの力で握り締める。震えた手は、どこか行き場を失った迷子のように寂しげに思えて、ヒリューニャはナーシャの手を目一杯に握り返した。


 いつからたがったのだろう。

 双子としてこの世界に生まれ落ち、共に歩んできたはずの道は、いったいどこから別々の道を歩むことになったのだろう。


 国王としての重圧に耐える日々。自らを殺し、民のために生きる不自由さ。それでも、“王”として立たなければならない姉を、ヒリューニャは身を賭して支えたいと思っていた。


 いつから歪んでしまったのだろう。ヒリューニャのあずかり知らないところで彼女は心を病んでいた。もしかしたら、国王を継承した瞬間からナーシャの心は独りになってしまったのかもしれない。

 ナーシャが独りになってしまった要因のひとつに、彼女を支えきれなかった自分に非があるとヒリューニャは自責の念に駆られ、吐き気を催した。


 ナーシャの手から、命が零れていく。

 段々と力が抜けていく。

 ナーシャの命が……消えていく。

 その感覚に、ヒリューニャの顔は一気に青褪めていった。


「……だ、だめっ、だめよナーシャ! まだ、まだ目を閉じてはだめ‼」


 ナーシャは静かにゆっくりと二回、浅く呼吸をしたあと、今度こそ完全に——深い眠りについた。


 ❅ ❅ ❅


 雨が、降り続けていた。


 スニェークノーチ国での雨は、特別な天気だ。

 それは、これから“春”が訪れる兆しを予感させるものだと伝えられていたためだった。


「……ねえ、雨が降ってるよ……。……眠ってしまったら……もう二度と“春”を、見られないよ……姉さん……」


 ヒリューニャの頬に、一筋の雫が伝った。


 それは雨か、それとも彼女の流した……——。


 冷たい雫は彼女の肩を無情にも濡らしていった。

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