第38話

 サリュートは今度こそ最愛の兄であるローウェンのもとへと駆け寄った。妹に怪我がないことを確認すると、ローウェンは安堵の表情を浮かべた。そんな兄妹の姿を、ナーシャは空ろな目でただじっと眺めていた。


「…………ほんとうは……」

「ナーシャ……?」

「……本当は、分かっていたのよ……。もう、ノークは、私のもとへは帰ってきてくれないって……」

「……」

「でもね——」


 ナーシャに——


 少し離れた場所にいたローウェンはその不穏さに、ゾワリと背筋に凍てつくような空気を感じた。

 勢いよくヒリューニャたちのいる背後へと振り向けば、そこには再びガラス片を手に取り、それを握り締め、今にもヒリューニャを刺そうとしているナーシャがローウェンの紅い双眸に映った。


「——やってみないと分からないじゃない?」


 ローウェンはその気配を素早く察知した。そして何を思ったのか、ヒリューニャの肩を勢いよく引っ張り、彼女を後方へと下がらせた。


「え」と音の抜けた空気がヒリューニャの口から零れた。瞬間、「うぐっ」という呻き声がかすかに彼女の鼓膜を揺さぶった。


「ッ、ローウェンさま‼」


 ローウェンが刺された。その光景が、嫌に脳裏に焼きついて離れない。

 彼の腹部から赤く滴る血液は、妙にはっきりとしていておぞましい。

 ローウェンはナーシャの首元に手刀を入れ、腹部に刺さったガラス片を乱暴に抜き取り床に落とした。落ちたガラス片には、べっとりと血液が付着していた。


「ああ……ああ……! なんてこと……。どうして私を庇ったりしたのですか⁉」


 少し苦しげに呻きながらも、ヒリューニャに心配をかけまいとローウェンは静かに微笑んだ。しかしそれはまったくの逆効果で、彼女の瞳にはじわじわと涙が滲み始めていた。


「……あんたが傷つくより、おれが受けた方がいいだろ」


 無事でよかった、とローウェンはヒリューニャの頭を優しく撫でた。その掌は、胸が痛むほどに温かかった。


「……無事……ではないじゃないですか……」


 ヒリューニャの瞳から、堪え切れなくなった涙がほろほろと頬を力なく伝っていく。ローウェンを見、そして気を失い床に横たわるナーシャに目を向ける。


 魂の片割れである姉は、いったいどこで道を間違えてしまったのだろう。

 すでに彼女の心は深淵まで沈んでいて、もう二度と、その身を引き上げることのできない場所にまで到達してしまっているのか。

 もう自分では、ナーシャの心を救えない。ヒリューニャは自分自身に失望した。


「にぃに……?」


 凍てついた音が、深淵にも似た空間にぽつりと一滴落ちた。音のした方を向けば、顔を青くしたサリュートがその場に立ち尽くしていた。

 しまった——ローウェンは痛む腹部を抑えながらサリュートを安心させようと笑顔を向ける。そして手を伸ばし抱き締めようとした瞬間——。


 全身を引き裂かんばかりの鋭利な叫び声が、母屋全域を支配した。


 ローウェンが懸念していたことが、現実に起こってしまった。

 サリュートが、暴走を始めたのである。


 ❅ ❅ ❅


 ——その日、サリュートという名の雌の春竜がスニェークノーチ城内にて完全顕現した。顕現場所である建物は半壊し、それにより現国王含む四名が一時行方知れずとなる。

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