第37話

 悲痛な泣き声と、叫び声、そして何かが割れる音がその一室に蔓延しているさまが異質だった。


 ヒリューニャたちが向かった先は隣接するナーシャの部屋——ではなく、彼女の婚約者が養生する母屋だった。


 重たい扉を開けた先には、凄惨な光景が広がっていた。


 割れたグラスの破片が床に何個も散らばっている。それで怪我をしたのだろうか鮮血が床のいたるところに散っていた。その中心で、泣き叫ぶ彼女は見ていられなかった。


 声を……出すことを許されなかった。


「……?」


 やっとのことで声を発したのはローウェンだった。そのあまりにも小さな音に、ヒリューニャは意識を現実へと戻す。

 ローウェンが呼んだのは彼女の姉の名ではなく、彼女の傍で空ろに立ち尽くしている彼自身の妹の名だった。


 サリュートは最愛の兄に名を呼ばれた瞬間、空ろだった淡い紅い瞳に光を灯した。

「にぃに」と笑顔になると、ローウェンのもとへと駆け寄——

 できなかったのは、サリュートがナーシャに引き留められたためだ。そしてサリュートは何も理解できていない表情で抵抗もせずを受け入れていた。


「……な、にをしているの……ナーシャ」

「……何、してるのかしらね……。自分でも……よく分からないわ」


 ナーシャはふらりと体を揺らした。その不安定さに畏怖すら覚える。

 彼女は床に散らばっていたガラス片をひとつ拾い上げると、それを握り締め、先ほど引き留めたサリュートの首元に軽く押し当てた。自分が傷つくこともいとわない、普段では考えられない彼女の行動に息を呑む。

 少しだけ切れてしまったのか、ツゥ……と一筋の赤がサリュートの首を伝った。ふわりと甘い香りが室内を漂い始める。それが誘惑の香りであることを、ヒリューニャは知っている。サリュートは「にぃに」と笑顔でローウェンに手を伸ばしていた。


「それを下ろして、ナーシャ。手を、切ってしまう」

「そう。手を切ったなら、痛いわね」

「……そうだよ、危ないから、こっちに」


「——


 その一言で、ヒリューニャは全てを察した。


「…………まさか……ノークさんが、亡くなったの……?」


 ノークは、ナーシャの婚約者の名だった。

 クルドゥ病に侵され、長い闘病生活をしていた。ここ数ヶ月は意識も無かったと記憶している。いつ死んでも、可笑しくはない状態だった。

 覚悟はしていたはずなのに、いざその事実を目の前にすると目の前が真っ暗になる。

 ナーシャの顔が、ぐしゃりと歪んだ。


「……あと少し、あと少しだったのに……‼」

「…………ッ」


 ——その言葉の意味を、ヒリューニャは知っている。ぼろぼろと止めどなく溢れる涙に胸が張り裂けそうだった。


「あと少しで、彼は私のもとに戻ってくるはずだった‼ 帰ってきてくれるはずだった‼」

「ナーシャ……! それは……」


「ッッ——うるさい‼」


 実姉の心からの完全な拒絶にヒリューニャは思わず怯んだ。


「……ああ……どうしてはいつもなの。私に無いもの全部持って。私はお前より優れている。だから国王を継いだの。でも、一番欲しいものはいつだってお前が持っている。国民からの信頼も、部下からの信頼も、お父様からの寵愛ちょうあいも、だって、何もかも持っているのに、どうして私には何もないのッ‼ 私はお前の姉なのに、劣るはずがないのに、劣ってはいけないのに‼」


 剥き出された言葉の刃が残酷なまでに妹の心を抉る。

 泣き叫ぶ姉の心は、ここまでもろくなってしまっていたのか。

 何が、そこまで姉を苦しめたのか。


 すべては、クルドゥ病という死の病がもたらした、悲劇だ。


「ナーシャ……」


 守ってあげたい。

 せめて、少しだけでも、彼女の心が許すのなら傍にいたいと。

 今こそ、騎士団に入った理由を思い出す、そのときではないだろうかと。

 けれどその場から動けずにいるのは、私の心が弱いからだろうか。と、ヒリューニャは顔を歪ませながらナーシャを見つめることしかできなかった。


 伸ばした掌は、空しく宙を掴み、彼女に届くことはない。


「ナーシャ」

「ッ来ないで‼ 来たら、この子の首を切る‼」


 ガラス片を握る手にぐっと力が篭るのが見えた。今のナーシャは完全に正気を失っている。下手に刺激すれば、サリュートが傷ついてしまう。そうなってしまえばサリュートは癇癪を起こして再び暴走しかねない。

 ローウェンは静かにヒリューニャに目配せをして「何もするな」と伝える。彼の意志が伝わったのか、ヒリューニャは小さく頷いた。


「やめてナーシャ。そんなことをしても意味がないでしょう⁉」

「意味? 意味ならあるわ?」


 ナーシャは、わらっていた。泣きながら、薄気味悪いと感じるほどの柔らかい笑顔をしていた。ゾクリ、と背筋に悪寒が走る。


「……ねぇヒリューニャ、も知ってるでしょう? 『花鱗』の伝説を」


 嫌な予感がした。

 ヒリューニャの耳に自分の心臓の鼓動が支配していく。


「この春竜の血を、『花鱗』を、ノークに飲ませるのよ! そうすればきっと彼は目を覚ましてくれるわ!」


 ナーシャが視線を医療用ベッドへと向けた。ヒリューニャも同じようにして視線を向ければ、そこには白い顔をしたノークが静かに


「だってまだ彼は温かいんだもの! まだ生きてる! 今なら間に合うわ! 間に合うのよ!」

「——いい加減にして!」


 彼女の暴走を止められるのは自分しかいないと考えたヒリューニャはぐっと足に力を込めてナーシャに近づき、そして彼女の頬を平手打ちした。パチン……という乾いた音が静寂の夜を切り裂いた。


「ノークさんは懸命に生きて、今日その役目を終えたの。人生をまっとうしたのよ! 今ナーシャがやろうとしていることは、人生をまっとうした彼に対する冒涜ぼうとくだわ! ……ッ目を覚ましてナーシャ‼」


 カシャン、とナーシャに握られていたガラス片がするりと床に落ちた。少しだけ傷ついたナーシャの手がぶらりと力無く揺れる。その白く細い手を、ヒリューニャは自分の掌で優しく包み込んだ。今更かもしれないと分かっていても、彼女の手を温めてあげたいと思った。

 その温かさに、ナーシャの表情が歪んだ。ほろほろと涙を流し始めたかと思えば、膝から崩れ落ちる。急なことで驚いたが、ヒリューニャはなんとか反応することができ、咄嗟にナーシャの体を支えた。

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