第36話
絶叫と、何か重たい物が床に落ちて割れてしまったような大きな音に意識が覚醒する。
ヒリューニャの最後の記憶は、甘く蕩けるようなひと時であったはずだが、彼女が目覚めた場所は温室ではなく自室だった。
しばらくの間、自身が置かれた状況を把握できなかったが、深呼吸を二度ほど繰り返せば次第に思考にかかった
カタリ、と近くで木の椅子が床とぶつかる音が鳴った。ゆっくりと起き上がり、音のした方へと視線を向けると、今しがたどこかへと行ってしまったのだろうサリュートの残像と、それを止めようとしていたローウェンが驚いた様子でその場に立ち尽くしているという光景が広がっていた。
「……ローウェン……さま?」
ヒリューニャは無意識に彼に声を掛けていた。とてもか細く、ひとを呼んだようには思えないほどの声量だったが、彼らは耳聡い生き物なのかその音を聞き取ることが容易らしい。ローウェンはヒリューニャに振り向いた。
「ヒリューニャ、起きたんだな。おはよう」
「はい。えっと……」
「と言ってももう夜だけどな。……体は痛くないか?」
「はいっ、体は、大丈夫です!」
彼の言葉に先の情事を思い出し、ヒリューニャは熟れた果物のように顔を真っ赤に染め上げた。動揺して、彼女の目がぐらぐらと泳ぐ。
「そ、それよりも、サリュートさまを追いかけなくてもよろしかったのですか?」
「ああ……多分、いつもの『お出かけ』だろうな。今夜は月が綺麗だったし、それに雪が光を受けて星が降っているように煌めいていたから、それを見に外へ出かけて行ったんだろう」
「ああ……だからさっき……」
「?」
覚醒する前に聞こえた『絶叫』はサリュートの喜びの声で、『落ちた音』は勢いよく開けられた自室の扉が開く、鍵の音だったのだ。ヒリューニャはひとりそう納得した。
「いえ、なんでもありません」
「そう、か?」
「はい。……あの、ローウェンさま」
「ん?」
「以前より、お訊きしたかったことがあるのですが、聞いてもいいですか……?」
「なんだろう。おれで答えられることなら」
ローウェンは優しく微笑んだ。ヒリューニャは申し訳なさそうにしながら礼を言うと、訊きたい本題に入った。
「……あの、ローウェンさまたちの暮らすプランタン島は、いったいどのような場所なのでしょうか……?」
その質問が意外だったのか、ローウェンは目を数回瞬かせた。
冬しか知らないであろう彼女は、おそらく自分の世界の中でしか生きてこなかったのだろう。それ故に見ることが難しい、暖かい世界に憧れた。一年に一度の短期間ではあるが『春』を知っているものの、彼女たちはその全貌を知ることはできない。
『春』のひと時、その儚さは凍える雪国に一筋の希望の光をもたらすのだ。
彼女の想いを理解すると、ローウェンは優しい表情で彼女に『プランタン島』について語り始めた。
「……そうだな。とても綺麗な花の咲き誇る美しい島国で、年中暖かい気候に恵まれた、美しい場所……かな」
「そう、なのですね。とても、素敵な場所……」
「……そうとも限らないけどな」
「え?」
「この国が一年を通して冬なのに対して、おれたちの島も同じように一年同じ暖かい気候であり続けるんだ。なんというか……代り映えのない時間を永遠に感じるのは、辛い、だろ」
それに比べて、とローウェンは続ける。
「この国は、季節は一貫して冬だったとしても、この国の天気が、見る世界を一変させてくれる。とても美しい国だ。おれはここが好きだよ。ずっと、いたいくらいだ」
切なげな紅い瞳が、部屋の窓に反射して揺らいで映る。彼の表情にヒリューニャは何も言えなくなった。これ以上、訊いてはならないとも思った。
何故ならそれは、別れを意味していたから。
だからせめて、気負うことはしないでほしいという願いも込めて訊くのを止め、ヒリューニャは柔らかく微笑んだ。ローウェンは彼女の気持ちの意図を汲み取ると同じように微笑んだのだった。
❅ ❅ ❅
遠くから、絶叫と何かが割れる音が彼女たちの聴覚を貫いた。
今度は聞き間違いではないと確信できる。
今しがた叫んだ声は、姉のナーシャのものだ。
ヒリューニャはベッドから勢いよくベットから降り立つと、傍にいるローウェンと視線を一瞬だけ交わした。彼も、事の次第を察しているようだったので、ヒリューニャは一度だけ彼に頷くと振り向くこともせず部屋を飛び出した。
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