第34話
「…………そんなことをして、いったい何の意味がある?」
ローウェンは果てて気持ち良さそうに眠ったヒリューニャを、愛おしそうな眼差しで見つめながら、横抱きして休憩室に設置されていたベンチへと寝かせた。
さらりと髪を梳くように、優しく指を通せば、少しだけ頬が綻んだ表情を見せた気がした。
「何の意味も無い。……いや、そうだな。無意識だったとはいえ、おれの不注意が招いてしまった結果、か」
「自覚は、しているのだな」
「してるさ。春竜の
発情期がたまたま今夜に重なってしまったことも含め、ローウェンは自分を御しきれなかったことを不甲斐なく思っていた。
「それに……いくら人間と交わろうと、本当の意味で交わうことはできないだろ? ……あんたにも分かってるはずだ。そうだろう、サリューティア」
それまで、休憩室の外側ですやすやと眠っていたはずのサリュートが、ふらりとローウェンの前に立ち尽くしていた。
彼女は、今までの雰囲気とはまるで違い、別人のようだ。彼女の纏う雰囲気に痺れる熱を感じる。その視線は、決してローウェンの姿を捉えて離さない。
「久しぶりだな。
「白々しい……出てきた理由を知っているくせに」
「……」
ローウェンは思わず苦笑した。
サリューティア——とは、サリュートの中に眠る、歴代の春竜の魂の残滓の主人格である。正式な名は無いのだが、名前が無いとやりづらいことやサリュートと対応を分ける必要があり、サリュートの真の名である『サリューティア』という名を彼女に貸している。
彼女はこれまで生きてきた春竜の意志そのものと言ってもいいのかもしれない。
今まで何度かサリューティアはローウェンの前に現れたことがあった。サリューティアは彼から視線を外すと『諦め』たような、『呆れ』たような負の感情を露わに溜め息を吐く。ローウェンにはその行動の理由が分かっていた。
「……春竜が絶える。その時が近い……そうなんだろ?」
「……」
今度は、サリューティアが口を閉ざした。それが答えだった。
春竜の繁殖は同族間でのみ可能であり、異種間での交配による繁殖は不可能に等しい。現在、この世界に存在する春竜は、おそらくローウェンとサリュートの二匹だけだろう。
いつの時代もサリューティアは春竜の繁栄を見届けてきた。しかし、もはやこの世界に残された春竜はたった二匹の兄妹のみ。その歴史が絶えることは必然であると決まったようなものだった。
春竜は世界に『始まり』を届ける者。そんな彼らがこの世界から消えてしまったなら、どうなってしまうのだろう。
まるでこの国の誇る儚い雪のように……ひとびとの心は死んでしまうのだろうか?
「交わえ。春竜を絶やしてはならぬ」
「……おれに、妹と交配を行えと?」
「これは天命だ」
「妹を犠牲にしてまで……サリュートの嫌がることをしてまで、おれは春竜を次代に継いでいこうとは思わないな。——サリュート!」
「何故分からぬ! ……っ」
ローウェンが愛おしい妹の名を叫ぶ。瞬間、サリューティアの体が震えた。かと思えば次は顔を顰め始める。ころころと変わる表情は実に滑稽だった。
サリューティアの意志など関係なく、彼女の左手が大きく震えだした。これは、きっとサリュートが心の内で起き始めている証拠だった。
「サリュート!」
ローウェンは再び、今度はサリュートの意識を完全に覚醒させる気持ちで彼女の名を叫んだ。バチンッ、と彼女の淡い紅い瞳が見開かれた。
ふらつく体をなんとか持ちこたえながら「ああ……起きてしまった」とサリューティアが愁いを帯びた目でローウェンを見つめた。それはサリュートの体から彼女の意志が去って行く合図のような気がして、ローウェンはサリューティアの目に逸らさず応えた。
「……後悔するぞ……」
サリューティアはどこか悲しげな表情をして、世界からその姿を消したのだった。
❅ ❅ ❅
「……悪いな。今、妹よりも大切なものなんて考えられないんだよ」
ローウェンはぽつりと呟いた。呟いた言葉は白い吐息に溶けていく。
少しして、目を空ろにしてその場に立ち尽くしていたサリュートが意識を取り戻したようで、目を数回瞬かせると兄の姿を見つけると満面の笑みを浮かべた。
「おはよっ、にぃに」
「……おはようサリュート。そろそろ部屋へ戻ろうか」
「んっ」
サリュートに優しく微笑みかけ、傍のベンチで眠るヒリューニャを抱きかかえ、そのまま温室から退室する。
これは、プランタンの花が魅せた幻惑だ。そう心に言い聞かせて。
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