第33話

 温室の、ひとが一人眠れるくらいのスペースにサリュートを寝かせてからローウェンたちは近くの休憩室に移動した。


 木の椅子に座り、ローウェンが左肩をゆっくりとさらけ出す。真っ赤に染まったがとても痛そうに思えるも、衣服にじんわりと滲んだ彼の血のにおいが、人間の血のような鉄臭さではなくプランタンの花香に似ていることに、ヒリューニャは思わず息を呑んだ。その甘さに、無意識に喉が鳴る。


 この瞬間ヒリューニャは、本当に彼が、かの春竜なのだと自覚した。


「……ヒリューニャ?」


 ローウェンの声にハッとする。「……申し訳ありません」とヒリューニャは包帯を持っていた手を再び動かす。

 噎せ返るほどに濃いプランタンの花の血臭に酔いそうだ。なんとか意識を保ちながら、ヒリューニャはローウェンの肩の手当てを進めていく。

 ぴと、とヒリューニャの指先がローウェンの左肩に触れる。瞬間、ぶわりと一気にプランタンの甘い花香が室内に充満した。彼女の手から、持っていた包帯が地面に落ちた。


 強めのアルコールを一気に飲み干したときの、あの熱い感覚。


 ヒリューニャは二日前のあの甘美な雰囲気に似た時間を感じて思わず体を震わせた。ゾクゾクと震える体を抑えるのに必死だった。

 不意にローウェンの視線が彼女の視線とぶつかる。ローウェンの瞳は、今彼女の感じている熱のように、燃え上がっていた。


 ❅ ❅ ❅


 気づいた瞬間には、すでにヒリューニャはローウェンに押し倒されていた。こくりと喉から音が鳴る。静かに下るローウェンの美しい顔が近づけば、甘く優しいを受ける。それは数秒間に渡り、吐息と共に離れれば、艶めかしい透明の糸が彼女たちを繋いだ。

 まるで名残惜しそうに、糸は千切れるその瞬間まで繋がれていた。


 続いてついばむような優しいキスが降る。心臓がバクバクと鳴り響いて、今にも張り裂けてしまいそうだった。


 気持ちいい。


 感じたことのない初めての快感にヒリューニャは戸惑う。瞬く度に竜の瞳が、彼女の思考を鈍らせる。


 あ——喰われる。


 それでもいいと思った。崇拝している春竜に、その身を捧げられることの何と光栄なことだろう。彼はヒリューニャに息注ぐ間など与えられない。飢えた竜に貪られてなお、ヒリューニャは恐怖よりもその疼く体を抑えられない。

 ひとつ、またひとつと、吐息が零れる度に、ローウェンに優しくされているのを感じる。なんて、幸せなひと時なのだろう。自分だけが幸せを感じてしまってもいいのだろうか。


「——ヒリューニャ」


 名を、呼ばれた。その瞬間、彼女の中で何かが弾け、一瞬にして微睡みの世界へと果てた。果てる直前にヒリューニャはあることを走馬灯なものを見るようにして思い出す。


 春竜の血液は、その昔『花鱗』と同等の価値を持つとして市場に出回っていた時代があると、とある文献を読んだことがあった。


 ああ、そうか。

 これは、プランタンの花香がみせた、誘惑の夢だ。


 ヒリューニャは胸の内で独りごちると、意識を静かに世界から宵闇へ落とした。

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