第32話

 最近、ヒリューニャの様子が少しだけ可笑しいと感じるのは、きっとローウェンの思い過ごしではないはずだ。


 二日前、ナーシャのもとへ見舞いへと向かったはずの彼女は、あれから自室に籠もるようになった。自室なのだから別に不思議はないのだが、何気なく部屋を覗けば仄かに灯る明かりの中で一生懸命に何かの蔵書を読んでいる彼女の姿があった。恐らく、クルドゥ病について調べているのだろう。勉強熱心なのはいいことだが、根を詰めては元も子もない。

 温室の中心にある憩いの場で「はあ……」と大きな溜め息が聞こえる度に、傍で花を愛でていたサリュートも彼女の身に何かしらの異変を感じているようだった。


「……何かあったのか、ヒリューニャ?」


 当たり障りなく呼び掛ければ、ヒリューニャは少しだけ困ったような表情をして、はい、と答えた。心ここにあらずといった生返事に、ローウェンは思わず訝しんだ。


 何かあったことは、ヒリューニャの表情から明白だった。大きな溜め息は時間を置くごとにその間隔が広がっている。もしや体調でも悪いのだろうか。ぐるぐると思考を巡らせていると、やっと心を現実に戻したヒリューニャが慌てて先ほどの生返事を謝った。


「あ、いえっ、今のは気が抜けていただけで……。こればかりは自分で解決をしなくてはならない問題ですから、ローウェンさまが気に病む必要はありません。お気遣いありがとうございます、ローウェンさま」


 そう微笑んだヒリューニャは再び大きな溜め息を吐いた。

 思えば、には心当たりがあった。唇を重ねた、あの日のことだ。

 もしかしてそのことが不快だったのだろうか。その所為で自分と会っていることが億劫なのか。


 彼女は、自分が春竜という存在であるから、仕方なく会ってくれているだけなのかもしれない。きっとそうだ。そうに違いない、とローウェンは自己完結した。

 申し訳ない気持ちで胸がいっぱいになったローウェンも、ヒリューニャと同じような大きな溜め息を吐く。

 同じように見える仕草でも、向かう方角は綺麗なまでに真反対だった。


 いつからそこにいたのか、不意にローウェンの視界にサリュートの影が差す。彼女はつまらないという表情をしてローウェンの顔を思い切りつねり始めた。


「いでっ⁉」


 短い悲鳴がヒリューニャの意識を現実世界に再び戻した。


「大丈夫ですか!」

「だ、大丈夫、驚いて声が出ただけだから……。急にどうしたんだよ、サリュート」


 サリュートは何故か頬を膨らませて、怒ったような顔をしていた。こうなってしまっては、為す術のないローウェンは困り果てるしかない。いくら家族といえども、妹の心の内まで知ることは難しいのだ。


 ローウェンはサリュートの手を優しく頬から放すと、目を合わせようと試みる。ご機嫌斜めなサリュートはまだ不貞腐れている。ローウェンは出来る限り優しく話しかける。


「何が気に入らなかった? にぃにには言えないことか?」

「…………すき」


 すき。

 すき? 好き?

 何が?


 混乱する脳内で、口を開いた今が、彼女の考えていることを深く訊くチャンスだと思ったローウェンは、慎重にサリュートの言葉を待った。


「……サリュート?」

「……すきなのにきらいは、いやなの! いや!」


 サリュートは突然癇癪かんしゃくを起こし、ついに暴れ始めてしまった。

 それはもう酷い暴れようで、流石のヒリューニャも目を見張ってその光景を


 サリュートは心の赴くままに生きている、純粋な『生き物』だ。それ故に、心が暴走すれば自然と比例して感情のコントロールができなくなる。

 彼女の意志は体に直結しており、影響し、作用するのだ。

 ローウェンはこの光景を誰よりも見てきたはずなのに、毎度のことながらその前触れを見極めきれたことは片手にも満たなかった。


「ど、どうすればっ?」と、ハッとしたヒリューニャが慌てていた。もう、めちゃくちゃだ。これでは埒が明かないことは明白だった。

 ローウェンは奥の手として、サリュートの体を目一杯に抱き締める。サリュートは大人しくなる素振りもなく、暴れてついにはローウェンの左肩に勢いよく嚙みついた。

 突き刺す痛みに、つねられたときの比にならない痛みが走り思わず呻く。それでもローウェンはその手を放さなかった。


「大丈夫っ、大丈夫だ、サリュート。ごめんな、にぃにが悪かったな」

「いやっ嫌なのっ! うぅ……!」


 いつだってそうだ。サリュートが苦しそうに表情を歪ませるのはローウェンのためだった。ふるふると頭を振るサリュートの髪を梳くように撫でる。落ち着くように、安心させるように。


 段々と落ち着いてきたサリュートの瞳から綺麗な雫が一筋、音も無く伝った。うぅ、と唸るのは彼女の最大限の表現だ。

 それは“ごめんなさい”と“どうして”という気持ちが混じり合った涙だった。


 ❅ ❅ ❅


「…………サリュート?」


 疲れてしまったのだろう、サリュートは穏やかな寝息を立てながらローウェンの肩もとで眠ってしまった。


「……眠ってしまわれたのですか?」

「ああ。ようやく落ち着いてくれたよ。……ごめん」

「え?」


 ヒリューニャは何に対して謝られたのか分からなかった。ローウェンは眠ってしまったサリュートをあやすように抱き締めている。


「驚いただろ? 急に、妹が暴れ出したりして」

「……それは、少しだけ驚きましたけど……。でも、あれがサリュートさまにとっての精一杯の感情表現なのだとしたら、納得がいきます」


 そう微笑むとヒリューニャは眠るサリュートを優しく撫でた。はらりと目尻から再び、輝く雫が零れ落ちた。


 ふと、ヒリューニャの表情が切なげに揺れたのをローウェンは見逃さなかった。サリュートの背をぽんぽんと優しく叩きながら、ローウェンは彼女の様子を窺う。

 ヒリューニャ? と訊いた瞬間、彼女は勢いよくその場を立った。あまりの勢いにローウェンは目を見張った。


「どうしたではありません! 早くその肩の傷を手当てを……!」


 早口でまくしたてたかと思えば、温室を勢いよく出て行ってしまった。

 少しして戻ってきた彼女の手には、救急箱が持たれていた。


「さあ、ローウェンさま! 肩を拝借!」


 有無を言わせない圧力でローウェンの目の前に立ちはだかるヒリューニャ。その姿にローウェンはただ「は、はい」と頷くことしかできなかった。

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