第26話

 ふ、と青年の目が開いた。数回左右に動かせばそこは医務室のようだった。

 前後の記憶は曖昧だが、どうやら自分は意識を失ったらしい。左側に体を傾ければ、愛する少女の姿があった。彼女はすよすよと心地よさそうに眠っていたが、そんな柔らかな表情とは裏腹に、彼女の体のあらゆる場所には白い包帯が巻かれていた。

 愛する者を守り切れなかった自分の不甲斐なさに、意味のない涙が青年の頬を伝った。


「あ……目覚めました?」と聞き覚えのある透き通った声が青年の鼓膜に優しく響いた。声の方へ視線を向けると、手当て用だろう替えの包帯を持った少女がそこに立っていた。彼女は首を傾げて不思議そうに青年を見つめている。

 青年が黙している理由に心当たりがないわけではない包帯を手にした少女——ヒリューニャは、まだ警戒されているのかもしれないと判断したらしく、ゆっくりと青年に近づいた。


「……あの……ご気分のほどはいかがでしょうか?」


 恐る恐る聞いてくるのは、青年が高貴な存在であるからか。

 ヒリューニャ自身、この国では王位継承権を持つ王族の娘であり、高貴な地位に変わりはないのだが、そんな彼女でさえもこうべを垂れる存在が今、目の前にいる。


「……あの?」

「…………大分だいぶ、楽にはなった。ありがとう」

「——! いえ、勿体なきお言葉でございます……


 そう言うと、ヒリューニャは青年の前にひざまずいた。なんと自然な動きだろうと、彼女の行動に思わず青年は目を見開く。

 青年の様子に、何か失礼を働いてしまったのではないかとヒリューニャは再び不安げな表情を浮かべた。


「……申し訳ございません」

「……? なんで謝るんだ?」

「お気を悪くなされたのでは、と……」


 思いまして、と語尾が段々としぼんでいく。青年はこの短時間に何故彼女がそう思ったのか、心の底から不思議に感じていた。

 少し考えたのち、青年はヒリューニャに優しく微笑みかけ、顔を上げろと彼女に伝える。ヒリューニャは青年の微笑みに思わずドキリとした。


「おれたちはいわば招かれざる客だ。あんたがわざわざくだる必要はないだろう?」

「い、いえ! そんなことはあり得ません! ……我が国はいかなる時も春竜さまを歓迎いたします!」


 ヒリューニャはこのとき、初めて青年に本当の笑顔を見せた。それは青年の中で『ヒリューニャ』という人物の印象が変わった瞬間だった。


「……ところで、その“春竜さま”というのを止めてくれないか」

「あっ、大変申し訳ございません! お気に障られたのなら……!」

「いやいやいや。そこまでは言ってない。……言ってないからまずその手に持っているナイフを置こうか」


 ヒリューニャは何を焦ったのか、どこからか果物ナイフを取り出したかと思えばそれを手首に当てだした。


 ……もしやこのヒリューニャという少女、相当に面倒臭いのでは?


 彼女の扱い方に若干の戸惑いを覚えつつ、青年は静かにヒリューニャの手元に自身の手を乗せると、果物ナイフを優しく抜き取った。案外するりとナイフは手から抜けたので青年は安堵する。

 しかしどこからナイフが湧き出てきたのか。まるで手品のようで、そのタネを知りたいところだったが、今は触れないでおこうと青年はそっとした。


「気に障ったわけじゃない。ただ“春竜”というのはおれたちの俗称だから。その、なんというか名前でないのが……こそばゆいな……」

「で、ですが、では……我々はこれから貴方さま方をなんとお呼びすれば……?」


 これから、というのは恐らく、青年とその隣で眠る少女が療養する期間のことを指しているのだろう。確かに、短い期間と思われるとはいえ、呼ぶ名が無いというのは不便だ。

 青年は少し考えたのち、では、とヒリューニャに伝える。


「おれのことはローウェンと、彼女のことはサリュートと呼んで欲しい」

「ローウェンさまと、サリュートさま……」


 敬称は要らないと否定しようとした青年——ローウェンだったが、否定したらしたで再びヒリューニャが暴走しかねないと思い止まり、ぐっと喉元まで出かかった言葉たちを呑み込んだ。


(よっぽどこの国は春竜を信仰しているんだな……)


 ローウェンは今までのヒリューニャの行動を見てそう感じていた。

 他国でも少なからず信仰される春竜だが、このスニェークノーチ国ほど強く崇拝する国はなかった。きっとそれは、この国が“雪夜の国”と云われる所以ゆえんに関係しているのだろう。


 春の訪れを忘れた、悲しみの降り続ける国。


 春竜はある程度の周期で各国を訪れ、そして春を告げる。だがときに、体調や天候に左右され、告げられないこともあった。


 特にこのスニェークノーチ国は土地柄、雪で荒れることも多く春を告げる周期がずれてしまうこともしばしばあった。何とか春を届けることができても、春竜にとってかの国は過酷な地に変わりない。


 今年はもう春は訪れないのかもしれない、という恐怖。

 春竜へ抱く切望。

 いつ来るかもしれない“いつも”に縋る日々。

 それらを総合すれば、当事者であるローウェンにも春竜を崇拝する理由が少し理解できた。


 ローウェンは目の前で微笑むヒリューニャを見つめた。儚げで慎ましく強かな冬の色を帯びた彼女の瞳には、何故か自分の姿は映っていないと感じた。

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