第20話

 幸いにも雪は降っていなかったが、積雪量は例年に比べて多いように思えた。庭園を超えて彼らは城下町へと繰り出す。

 明け方。この時間はまだ早いためか、辺りはどこも静かだった。

 明日は『ヴェスナー祭』当日のためかこの国で『春』を意味するプランタンの花をかたどった装飾が至る場所に施されている。


 街を降りた先に、小さな丘を見つける。丘には雪は積もっていなかった。積もってはいなかったが、雪の代わりにこの国を代表するプランタンの寒色が一面に咲き誇っていた。


 周辺にひとの気配がないことを確認すると、ロウはリチラトゥーラを優しくプランタンの絨毯の上に支えながら寝かせる。リチラトゥーラは体に痛みが残っているのか体躯を強張らせていたが、彼の声を聞くとゆっくりと瞼を開けた。


「……意識はあるな、リチ」


 ロウはそう彼女に確認すると、リチラトゥーラの返事を待つことなく自身の唇を彼女の口へと重ね合わせた。それはキスだった。息注ぐ間もなく、リチラトゥーラは二度目のキスを受け入れる。こくん、と何かがロウから口移しされたと気づいたのはそのときだった。

 甘くて、甘くて、意識が蕩けてしまいそうになるようなその『何か』は、リチラトゥーラの体内に優しく巡っていく。段々と体から痛みが抜けていくのが分かった。

 ぷはっ、とやっとのことで呼吸を得たリチラトゥーラは、混乱の中でもその混乱を作り出したロウを拒絶することをしなかった。

 拒絶など、できるものか。

 呼吸のために引き剥がしたロウの表情は、今にも泣き出しそうな、迷子の少年のようだったのだから。


「……ロウ……今何をわたくしに飲ませたのか、答えなさい」

「…………。それは、ですか?」

「……ええ、よ」

「……分かりました」


 温かい風が、丘一帯を包みだす。ふわりと浮かび上がるプランタンの花弁がロウの周りに渦を作り始めた。

 このまま、彼がどこかへ消えて行ってしまいそうで。

 嫌な予感が彼女の頭に過ぎる。怖くなったリチラトゥーラは「待って!」と声を出したが、巻き起こった花吹雪によってその声は遮られてしまった。


 風が止む。プランタンの舞が治まった頃、彼女の目の前に現れたのは——。


 ❅ ❅ ❅


 現れたそれは、薄紅の鱗を持つ、間違いなくあの絵本に生きる『春竜』だった。

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