第19話

 その日、旧スニェークノーチ城跡に一線の稲妻が落ちた。分厚い雲が空を覆い尽くしていたが、空に稲妻が通った分だけの円形の雲間ができた。一筋の光が差し込むと、その光の柱の中にあるがひとつ、城跡に現れた。


 その影の正体は、


 遥か昔からスニェークノーチ国に伝わる伝説の春竜が、この日、約三百年ぶりに雪夜の大地へと完全顕現した。


 国の近衛兵が現場へと駆けつけた頃にはすでに春竜の姿はなく、ただ負傷し気絶した『賊』と、その場に倒れていた今回の事件の首謀者であるジュード=ハンス、そして、リチラトゥーラを抱き締めたまま俯いたロウの姿があった。


 ❅ ❅ ❅


 体が熱を発している所為か、リチラトゥーラの頬は赤く染まり吐く息は荒く熱い。こんなにも弱々しく映る彼女を見るのは初めてで、ロウは思っていた以上に動揺していた。


 今回の事件——近衛兵隊長による組織内部犯行の誘拐事件から一夜明けた。

 リチラトゥーラは受けた毒の解毒薬を摂取し一命を取り留めることに成功した。毒は毎日飲んでいるものが塗られていたらしく、量がいつもより多かったために拒絶反応を起こしたようだ。解毒薬はすぐに用意され、誰もが新種の毒でなくて心から安堵した。

 事件を起こしたジュードは城内に設置されている拘置所へと拘留され、現在はかつての仲間から尋問を受けている。

 あとで聞いた話だが、彼は春竜を信仰する宗派の信者で、女神として崇められていたイザベラーニャ妃を崇拝していた。彼女の病が春竜の鱗で治ることを信じて疑わなかったらしく、ロウが春竜であると確信してからは執拗にその鱗をどう奪ってやろうかと年密に計画を練っていたらしい。だがその計画が実行される前にイザベラーニャ妃が死んでしまった。そうしてこの怒りをどうぶつけてやろうかと考えた結果がこの事件の発端だった。


 どんな理由があったにせよ、彼が犯したのは『国罪』。きっと、禁固刑よりも重い罰が待ち受けていることだろう。


 リチラトゥーラは三日三晩高熱に魘され続けた。四日目にして意識を取り戻した彼女はまずロウを求めた。ずっと彼女の傍に控えていたロウの姿を確認すると、リチラトゥーラは悲しげな表情をして彼の手を今持てる限りの力を込めて握り締めた。

 その小さな手の握り返す力は、弱い。

 彼女に『死』が近づいているのだと、ロウは確信していた。


 リチラトゥーラが誘拐されてからというもの、ロウは献身的に彼女の看病を率先して行った。そうして数日という長い時間を要したが、彼の看病のお陰かリチラトゥーラは起き上がれるほどに快復した。

 ある日リチラトゥーラはロウに「故郷の話が聞きたい」と言い出した。


「……なんだよ、いきなり」

「前から聞きたいと思っていたの。……ダメ?」


 微熱によって潤んだ瞳に見つめられると、ロウは思わず視線を手に持っていた水桶に逸らした。けれど、リチラトゥーラの命令おねがいは絶対だ。拒絶することなどできない。ロウは渋々と彼女の傍にあった椅子に腰を掛け、自身の故郷について語り始めた。


「…………あんまり、この国に来る前のことは憶えてない。けど……寒かったことは憶えてる」

「寒い? この国よりも寒い場所があるの?」

「物理的な寒さではなかったと思う。きっと、心理的なものだ」


 心が寒かった。その記憶だけが鮮明に彼の魂に刻み込まれていた。

 不意にロウの視界が暗闇に染まる。一瞬体が強張ったが、その暗闇を作り出した正体に気がつくと、ふっと彼の体から余計な力が抜けていった。リチラトゥーラがロウを胸に引き寄せて抱き締めたのだ。彼女の温もりがロウに掛かった余計な力を溶かしていく。深呼吸が自然と促された。


「とても辛かったのね。わたくしがお前にしてあげられることは、ほんの些細なことしかないけれど……ロウを助けることができて、本当に良かった……」

「リチ……」


 ロウがリチラトゥーラに言葉を続けようとしたそのとき、彼女の体がぐらりと横に揺れた。容態が、急変したのである。


「リチ——‼」


 ロウが懸命に彼女の名前を叫ぶが、彼女は苦しげな表情をしてぐったりとして、その冬の色をした綺麗な瞳を開けようとしない。動揺したロウはそのとき何を思ったのか、その小さく痩せた体躯を抱きかかえ、気づけば、彼女の部屋の窓から外へと抜け出していた。

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