第10話

「……ロウ……?」


 敬愛する姫の声が彼の耳に届いたとき、ロウは初めて自身の頬が涙で濡れていることに気がついた。


「……どうしたの、なにか、こわいゆめでもみたの……?」


 リチラトゥーラがおぼろげに瞳を揺らしながらロウを心配そうに見つめる。ロウは涙を拭わずにリチラトゥーラの手を取り「大丈夫……」と弱々しく微笑んだ。


「……とても大丈夫には、見えないわ……」

「おれが大丈夫って言ってる。だから、大丈夫なんだよ」

「……? 変、なの……」


 リチラトゥーラは微睡まどろみながら柔らかな笑みをロウに向けた。

 彼女は毎日、この本を読んでいる。およそ子供の読むような内容ではない絵本を、大切にずっと読んでいる。彼女は毎日、この本の主人公のように、大切なひとを想い『毒』を飲む。


 この先の未来が辛くとも、それでも生きなければならないからと。

 生きて、夢を叶えたいから、と。


 ロウにとって、リチラトゥーラという少女は『竜』のような存在だった。立派に人生を全うしようとしている、小さき竜であった。


「……なにがかなしかったの?」

「なにも……」


 ロウは無意識なのか、縋るようにしてリチラトゥーラの右手を自分の頬に当てた。ぬくい、子供体温が彼の心を優しく癒していく。


 リチラトゥーラは彼の過去を知らない。彼を拾った三年前よりも以前のことを知らない。今更、知りたいとも思っていない。彼の過去に辛い記憶があるのなら、それを知りたいとは思わない。


(辛いのは、痛いのは、嫌だわ)


 リチラトゥーラという若干十歳の少女は、過去の経験から『痛み』に敏感だった。そんな痛みを無理に引き出すことはしない。ロウの心の痛みを気遣いながら、彼女はロウの頭を抱き締めるようにして撫でる。

 いつもであれば「やめろよ、子供ガキじゃないんだから」とすぐに離れようとする彼だったが、今日はいつもと違うようで逆にリチラトゥーラを求めた。


「……今日は随分となのね、ロウ?」

「……うるせぇ……」


 暴言を吐いても離れる気配は無い。よほど、悲しい夢でも見たのだろう。リチラトゥーラはそういうことにして、彼が落ち着いて居眠りしてしまうまで頭を撫で続けた。

 その後、ふたりして彼女の部屋で寝こけてしまい、様子を見に来た国王に「不純である!」と叫ばれたことは記憶に新しく、その年の国一番のニュースになるほどの衝撃だったという。


 ❅ ❅ ❅


「……ごめんね、ロウ」

「いや……おれの注意が足りなかったのが悪い。リチも怒られるとは、思わなかった」


 それもそうだろう。年頃の、それも愛娘が身元も分からない雲のような男がひとつのベッドで―—何もしなかったとは言え——、一夜を共にしたのだ。もし自分が父親であったなら、間違いなく国王と同じように叫び倒すだろう。


(国王はまだ優しいかただった)


 国王はリチラトゥーラの意思を尊重する。今回も彼女がこの件は誤解であると説明をしたことでロウにもお咎めが少なく済んだと言える。一般論で考えれば、世が世なら間違いなく彼は首を落とされていただろう。


「……考えるだけでも怖ろしい……。あんたの従者で本当に良かった……」

「わたくしも。ロウのお咎めが少なくて本当に良かった」


 国王から下された罰として、ロウにはリチラトゥーラと早朝、とある場所へ向かうように命令した。それは、スニェークノーチ城にある礼拝堂へと赴くことだった。本来この礼拝堂は王家の血族のみが入ることを許されている神聖な場所。ロウが生涯、足を踏み入れることなどないはずの場所だった。

 ロウは何巡も思考を巡らせるが、一向に答えは出てこなかった。


 礼拝堂の前に着く。かの扉には竜の蜷局とぐろを巻く姿がひとつ彫られており、目の前に立っているだけで息が詰まりそうになる。そんな重々しい空気が扉を取り巻いていた。


「……着いたわ、ロウ。入りましょう?」


 繋いでいた手に不意に、くいっと力強く引っ張られる。彼女の目はまっすぐロウを捉えていた。リチラトゥーラと共に扉を引く。先ほどまで重いと感じて進まなかった足が、不思議と軽くなった、気がした。

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