第2話 ヨガインストラクター『若葉ゆい』aka『乳』

 生乾きの髪もそのままにベッドに突っ伏して起きると、私はもう一つの顔――ヨガインストラクター・若葉ゆい――に変身する。

 三十代から六十代の女性で盛況のスポーツヨガコースを受け持ってから、気が付けば五年以上が経っていた。


「エイトカウントでゆっくり息を吐きまーす。全身がゆるむのを感じてくださいね」

「しっかりと足の裏を地面につけて」

 痛い痛いと転がってもんどりを打つ六十代半ばの女性に駆け寄りながら、私はふと三十年後の自分を重ね合わせてしまう。

 元は豊かであっただろう彼女の乳が腹と一体化して芋虫状いもむしじょうになっているさまから目をそむけると、お手本のような姿勢でポーズを取る女性と目が合った。


 聖観音像しょうかんのんぞうのように均整きんせいのとれた肢体したい美貌びぼうの彼女は、あやのさんと言う名の三十歳。とあるサッカー選手の新妻だ。

 彼女は誰からも愛されている。そして自分が愛される価値がある事を全く疑っていない――。

 私はまぶしさに耐え切れず彼女から目を反らした。


「はいそれでは鳩のポーズに移りましょう」

 鳩のポーズは胸のラインが強調されるので、鏡に映る自分の姿はあまり見たくない。

 気を抜くと消したくても消せない思い出がよみがえる。


 私のあだ名は『ちち』だった。




『おっ、乳の人だ』

 日に日に自己主張を強める胸は全身に対してアンバランスな大きさにまで成長し、通学電車で一緒になる他校生のからかいの的となった。

『うちの家系にはこんなみっともない体つきの女なんて一人もいません。あなたの母親があんなろくでもない男と結婚したばっかりに。これ以上大きくなったら恥ずかしくて一緒に外も歩けやしない。どうにかなさい』

 既にこの世にいない祖母の、ヒステリックな叫び声が脳内に反響する。


「ゆっくりと息を吐きながら伸ばしまーす」

 私は息と共に脳裏のうりをよぎるトラウマを吐き出したが、頭の中の呪いは黙る事を忘れたようだった。



ちち!日本史の教科書貸して』

『その呼び名止めて』

『えーっ、乳は乳じゃん』

 女と言う性のしばりから解放されれば楽になれるのかとも、学生の頃から何度となく思った。


 自分ではどうしようも出来ない胸の成長はとどまる事を知らず、ついには高校の夏服のボタンが電車の中ではじけ飛んだ。


 私はあの瞬間を未だに忘れられない。

 欲情と嫉妬しっとの入り混じった男女の目線。もがけばもがくほどはだけるカッターシャツ。

 そして『乳』『乳』とささやき合う、変声期へんせいきの男子達の声。

 私にとって、ついにはGカップにまで育った両の胸は、いとわしさの象徴だった。




 小学四年生の時に事故で両親を突然失ってから、ずっと身の置き場がなかった。

 胸を小さくしろとヒステリックに叫ばれても、自分でどうにか出来るものではない。

 胸が大きい事を父方の血のせいだと祖母になじられても、子供の私には言い返す言葉が出てこない。

 両親の突然の喪失そうしつそれ自体より、私と言う人格を否定される新しい暮らしが、養育者よういくしゃである祖母の意に反して女として溌溂はつらつと育ち行く肉体が、私を苦しめ精神をむしばんだ。


 なぜ私だけが残されたのだろうと思った。

 死にたいと思った。消えたいと思った。思い続けた。

 消えたいと叫び続ける心と生存本能に忠実な体の二律背反ダブルバインドをしずめようとヨガに手を出し、気が付けばずるずると生き続けて三十歳をとうに超えていた。


 能動的な生と言えるかは甚だ疑問ではあるが、消えたいと思っていたはずの私は肉体レベルでは思った以上に生に執着しているようだった。

 

※※※


 二コマを終えた私は近くのデリで遅い昼食の品定めをしていた。

「たっくん、これどう」

 声の主に目を向けると、ペールグリーンのサマーニットを着た女性が見慣れた顔と総菜を選んでいた。  

 いかにも可愛らしいお嬢さんだったが、拓人さんの大学の知り合いならば相当な才媛さいえんなのだろう。

 私は拓人さんに気づかれぬようにそっとサラダのパックと取ると、レジに並んだ。


「あれ、珍しいですね」

 私の気遣いを無にするようにレジを済ませた私に拓人さんが声を掛けた。

「寝過ごしちゃって」

 サマーニットを着た彼女が、接点のなさそうな私たちを見て小首をかしげた。

「ああ、こちらは俺のバイト先の方で若葉さん」

「こんにちは」

 にこやかに頭を下げると、彼女もにっこりと頭を下げた。


「ずいぶん食べるのね」

 レジ袋二つに入れられたおにぎりにサンドウィッチやおかずの量を見て、私は思わず拓人さんの顔をまじまじと見た。

「語学のクラスのじゃんけんに負けて買い出しに来ただけですよ。二人でこんな量を食べるわけないでしょう」

「あらそうだったの。私てっきり邪魔しちゃいけないと思って」

 自分の口ぶりが丸っきりオバサンのそれになっているのに辟易へきえきしつつも、口から出た言葉は戻せない。

「えー、たっくんはちょっと」

 彼女はオコジョのような顔をほころばせつつ、至極ストレートな感想を拓人さんに投げかけた。


※本作はいかなる実在の団体個人とも一切関係の無いフィクションです。


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