あの子のことー世界は君が思うより、ずっと優しいはずだからー

モモチカケル

第1話 女の人は『美人』か『かわいい』しかいないとあの子が言ったので

「若葉さん、外が暑すぎて溶ける」

「夏だもん」

 店内の風よけ室に看板をしまい込む大学生アルバイトの暑さにやられた声を聞きながら、私は生返事を一つする。

 時刻は午前一時半、東京と横浜の境界にたたずむファミリーレストランの閉店風景である。


「拓人さん、掃除機を掛けたら上がって」

 偉そうに指示を出してはいるものの、私の勤続年数は三年にも満たない。

 大学一年生の鈴木拓人すずきたくとさんとの違いは、時給五十円増しで深夜帯責任者などと言う有難くもない肩書を与えられている所だけ。

 いや待て、私は三十三歳のダブルワーカーだから十九歳の理系大学生とは結構違うのか――。


 どうでも良い事をつらつらと考えながらレジ締めを終えると、自己主張の激しい業務用掃除機のモーター音が止んだ。

 午前一時四十五分。退勤時間だ。


「お疲れ様」

 拓人さんが更衣室に消えるのを見送りながら業務日報ぎょうむにっぽうを書けば、私の仕事も終わりだ。

若葉わかばさん、終わりそうですか」

「もう終わる。ごめんね、先に帰っていいのに」

「いや、閉店時に一人で帰るのは絶対に駄目ですから」

「それもそうね」

 曖昧あいまいに笑って業務日報を仕上げると、女子更衣室へと向かう。


 油と煙にさらされた私の顔はどろどろで、まとめた髪にも油の匂いが染みついている。

 スポーツクラブのヨガインストラクターとしての仕事を終えた後に、シャワーは浴びている。

 それでも午後六時から閉店までキッチンにこもりきりの体は、シャワーを浴びた意味がなくなるほど油まみれになるのだ。 




「ごめんね、お待たせ」

 通用口の前でスマホをいじっている拓人さんに声を掛けた。

「今日は忘れ物はありませんか」

 スマホとにらめっこしていた彼の大きな丸い目が、ゆるいくせっ毛の間からのぞいた。

 私も女性にしては長身な方だと思うが、私の頭より拓人さんは頭一つ分近く背が高い。


「いくら何でも週に二回以上忘れ物などしない」

 一昨日拓人さんと帰っている途中で、スマホを忘れたと店に戻ったばかりだった。

 ちょっとむきになった私の答え方が可笑しかったのか、拓人さんはくすっと笑って歩き出した。




 東京と横浜の境界線に広がる深夜二十六時前の住宅街に、私の押す自転車のホイール音が微かに響いている。

 私より一回り大きな彼の影を視界に入れながら自転車を押し歩きするようになって二週間しか経っていないのに、拓人さんとはずっと前からこうして歩いているような気になるから不思議だ。


「拓人さんってここの前に飲食系のバイトしてたんだっけ」

「いや、単発の設営せつえいバイトぐらいしかしてないですよ」

 拓人さんはちらりと私の方を向いて答えると、また正面を向いて歩きだした。


「癖のあるお客さんわすの上手いよね。あの常連四人組の洗礼を難なく交わすとはレベル高すぎ」

「あの美容師さんたちですか」

「そう」

 私はげんなりした顔を隠すこともなくうなずいた。

 私より一回り以上年上の常連四人組は、ただのファミリーレストランをホストクラブと勘違いしているふしがある。


「俺の中では女の人は『美人』か『かわいい』しかいないんで大丈夫です」

 もしやこの子はファミリーレストランのフロアスタッフよりもホスト向きじゃないのか――。

 真顔でとんでもない事をさらりと言ってのけた横顔を、私はまじまじと見つめた。


 私がイケメンと認定するタイプとはかけ離れているが、確かにハイビスカスのような華やかな雰囲気のある子ではあった。

 その上私が受験に失敗した超難関校の理工学部生だと言うのが、またちょっとばかりしゃくに障る。


「俺は逆にキッチンは無理ですね、暑そうだし料理できないし」

 ゆるい坂道をのんびりと歩きながら、とりとめもない話をぽつぽつとしていると、拓人さんのスマホが夜の住宅街に似つかわしくない着信音を立てた。


「済みません」

 スマホをしまうと、拓人さんは長めの前髪をかきあげて小首をかしげてみせた。

 勤め始めて三週間のうちに、ディナー帯のパートさんや常連の女性客の心をがっちりつかんだのはこの仕草のせいなのかもと、私はぼんやりと思った。


「本当に大丈夫ですか」

 東京と横浜をへだてる幹線道路に出ると、私たちは決まって同じ言葉を交わす。

「うん、この道路沿いだから平気。拓人さんこそ気を付けてね、お疲れ様」

「お疲れさまでした」


 自転車で拓人さんを置き去りにして一分もたたぬうちに、築三十年越えのアパートに着く。

 私にとっては幸運で大家さんにとっては不運な事に、隣も上も空き部屋だ。

 悲鳴を上げる体を引きずりつつシャワーを浴びて化粧を落とすと、年齢よりは若く見られがちだが張りのない素顔が現れた。

「疲れたな……」

 私は時計のアラームを午前九時三十分にセットして、使い古した布団を被った。


※本作はいかなる実在の団体個人とも一切関係の無いフィクションです。

 

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