異管対報告第3号-3

[国は俺達を残してそのまま攻撃を始めて……]

[民間人である私達がいるのに、魔獣に攻撃をするなんてナンセンスですよ!そもそも…]

[マジで国防軍は糞。自衛隊の頃からそうだけど、日本に軍隊はいらないって……]

[政府は逃げ遅れ巻き込まれた私達に謝罪を……]

[まぁ、避難誘導とか"逃げてください"って放送聞こえてたけど、私達が"どこにいても守る"のが軍隊の仕事でしょ?]


 カーテンの閉ざされた日の差さない部屋は、その広さで四隅の先が暗く見えなくなる程なのである。その部屋の壁巨大なスクリーンは、高い天井から垂れ下がっている。その白いナイロンの壁にはプロジェクターから光による色鮮やかな映像が写し出されていた。その映像は全てネットの動画配信サイトのものであったが、動画の下のチャンネル名の欄は、それらが良くて登録者数数千という弱小であることを明確に示していた。

 しかし、動画の再生数はどれもが数十万を超えていたのである。それは全てがタイトルや内容に"東京湾アクアライン防衛戦"という言葉が並べられ、全員が政府や軍を批判しているのであった。

 つまり、スクリーンに移される動画は全て"己の命より承認欲求を優先した者達"による"責任転嫁"と"八つ当たり"なのである。その投稿動画は当然コメント欄で論争を巻き起こし、"政府批判と軍へのバッシング"対"投稿者達のバカさ加減"の言い争いとなっている。

 それを黙って見つめていたシワ1つない制服姿の一歩は暫くすると、大口開けつつ声さえ漏らして我慢できなくなったアクビを辺りへ放ったのだった。

 その瞬間、部屋には大きく低い咳払いが響き、集中力を宙へ吐き出していた一歩はその身を大きく揺らした。


「港3等海尉、何か言いたいことはあるかね?」

「何も考えないで生きてそうな連中ですね。こうやって"自分がバカですと主張しながら生きていける"なんて正気を疑いますよ。まぁ、こういう"晒し者になるしか金の稼ぎ方を知らない"というのも惨めですね」

「そういうことを聞いているのではないよ、港君。これを見てどう思うかと聞いている」


 変わらぬ暗い部屋の中で、男の声が響いた。その声は老成して嗄れながらも覇気があり、声だけで筋骨隆々とした雰囲気を醸している。それの声の通り、カーテンから僅かに滲み出す陽の光によって見える男の影は肩や胸が張った逞しいものなのである。

 そんな男の言葉に肩をすくめる一歩は、声のした方へ顔だけ向けると眉をひそめて笑って返した。彼からすれば、暗闇の中でスクリーンの光の反射で階級章や無数の勲章を輝かせる横並びの老人3人へ言えることはこれしかなく、直ぐに再び"自分の行動を棚に上げて好き放題に喋るネット弁慶"達へ顔を戻した。

 だが、当然ながら一歩の言葉は老人3人に取っては不愉快以外の何物でもなく、今度は痩せ枯れた高い声の男が彼に声を掛けた。その男の細い皺のある指が影に同化する濃紺のネクタイを不満げに弄る姿に、一歩はようやく楽しげに笑ってみせた。


「いえ、その報告通りです。何もありません」

「"何もありません"だとぉ!貴様ぁ、どれほどのことをしでかしたのかわかっているのかぁ!」


 一歩はようやく振り返り、3人の前で笑ってみせた。その不敵な笑みと共に放たれた言葉は力強く、そして明らかに敬意がなかった。それだけ、彼にとって部屋の上座で肩に大きな金や銀の星、袖に太いの金線を付ける老人3人の存在はどうでもいいのである。

 むしろ、一歩は影の奥にあるだろう苦虫を噛み潰したような3人の表情が堪らなく楽しいのである。

 その一歩の表情はプロジェクターの明かりによって当然国防軍各幕僚長に見えており、茶化す言葉と態度に我慢ならなくなった3人のうち中央に座る男は制服を筋肉ではち切れそうにしながら机を叩き立ち上がった。その鋭い音と響き渡る怒声は部屋の隅に飾られた日の丸や軍旗を揺らすかと思えるほどである。

 そんな陸軍幕僚長の言葉と共に、スクリーンの映像を管理する副官達は映像を止めつつ内容をPDFファイルに変えた。それは"水棲魔獣の東京湾アクアライン侵入事案の報告"と題を打たれ、制作者の欄には一歩の名前があった。


「政治と経済の中心かつ数百万単位の国民が生活する関東地域を守るために、"外務省職員"及び"異界管理対策本部隷下新宿局専従班捜査員"として"外務大臣"の命令の元に対応しただけです。"防衛省の中で踏ん反り返るだけ"の皆様にあれこれ言われるのは筋違いではないのでしょうか?」


 怒鳴られた一歩はスクリーンの映像が変わったのに肩を落とすと、態とらしく回れ右をして3幕僚長と正対した。その不動の姿勢で彼は語ってみせると、最後には演技がかった露骨な態度と共に小首を傾げて見せた。一歩の態度は完璧に上官侮辱に当たるものであったが、彼の言葉は全て法律や規則を盾にしている正論である。

 それ故に、たとえどれだけ階級が高くとも国家の一組織に属する幕僚長達と言えども規則に基づいた明確な反論が出来なかった。その一方的な説明と皮肉に手も足も出せない陸軍幕僚長の肩は震え、座ったままの残りの2人も肩をすくめたり溜息をついたりしてみせた。

 航空法や管制方式基準、飛行場規則に軍の達や協定書等の頭を抱える量の法的根拠を無理やり頭に捩じ込まれた管制マーク特有の正論戦法は、隊の中でも忌避される程に強力過ぎたのである。


「勘違いしてもらっては困るよ、港3等海尉。君は確かに外務省へ出向扱いで勤務してるが、本筋は防衛省の職員。命令には従うべきで……」

「それを私に言うことが筋違いと言いたいのです。要は"外務省へ出向中とはいえ軍人が防衛省の意図を無視する行動をした"ことが気に喰わないのでしょう?それこそ、私ではなく"外務省"や捜査官に逮捕権や駆除実行権を与えるよう指示した"国際異界管理統合局"へと苦情を言えばいいでしょうに」


 それでも食って掛かる空軍幕僚長は、ネクタイから手を離して威圧するように机を指で叩いて一歩へと語りかけた。空軍幕僚長のそれは階級社会に住む上級将校としての口振りであり、痩せ枯れた声ながらも軍属ならば背筋を正させる指揮官としての凛々しさがあった。

 しかし、それが軍属特有の考えだったために、空軍幕僚長は一歩から口を遮るほどの反論を受けたのである。それはまるで1発の拳銃に機関銃の乱射で返すかの如く猛烈であり、一方的なものであった。それは当然根底に法的根拠を持つため、一歩が言い終わった後には誰も口を開けなかった。

 一歩を除いた全ての者達は、"軍属としての知識"はあっても結局は"軍人"であり、"どれだけ勉強嫌いであっても無理矢理にでも学を持たさせられる"管制マークの"法的根拠を求める執念"には勝てなかったのだった。


「部下が上司に"愚痴"をこぼすのはいいと思いますが、上司が部下に"八つ当たり"をするのは如何なものかと」

「なんだと、貴様!」

「陸軍幕僚長殿は頭の血管が随分細い割に血量は多いようですな。"無念に倒れた部下の流した血"が流れているのですかね?」

「上官侮辱罪だぞ、港3尉!いい加減にしろ!」


 勝ち誇った一歩は胸を張り、それまでしていた不動の姿勢を休めに変えると笑って受け売りの皮肉を投げつけた。

 その一言は遂に陸軍幕僚長の逆鱗に触れるどころか引きちぎり、彼は一歩を血走った瞳で睨み付けると机を拳で殴り怒鳴りつけた。その声は部屋を震わせるほどの声量であり、副官達はその声に肩を震わせ顔を青くした。そんな彼等の姿を一瞥した一歩は、自分より上官の1尉達のその姿に肩を落とし頭を抱えたのである。

 そして、一歩は顔を上げて陸軍幕僚長を睨みつけながら再び静かに皮肉を吐いた。その口調はそれまでの戯けた楽しげなものと異なり、何より腹の底から震えていた。

 一歩は自分の周りにいるお気楽な"軍人もどき"にいよいよ苛立ち始めたのである。その怒りに油を注ぐように空軍幕僚長も口を出し始めると、彼はただ黙って肩と拳を震わせた。


「わかっているのか、君は!君は上官である貞元3等海佐の命令を無視して遅滞戦闘を止め、まだ避難も完了していない海ほたるの周辺で戦闘行為を行った!それだけで十分以上国民を危険に晒したのに、それだけに留まらず君は特装砲を使用し逃げ遅れた国民に火傷等の負傷を負わせたのだぞ!このネットの映像を見てまだ減らず口を叩くか!」

「我々日本国軍は常に国と国民を護るために存在する。その我々が戦う場所に国民がいるということは、その保護を最優先にしなければならない。それをだ……」

「貴様、解っておるのか!これは自衛……いや、軍の存続に関わることだぞ!それを貴様はいけしゃあしゃあと!」


 一歩は幕僚長2人の言葉を前に黙った。それを好機と見た陸軍幕僚長は笑みを浮かべ、彼へと一方的に怒鳴りつけた。それは、もう一歩の過去の行動に対する叱責ではなく、彼の態度や発言に対する怒りとストレスの発散でしかなかった。だからこそ、顔を真っ赤にするその口をからは"綺麗事の羅列"しか流れないのである。

 そこに空軍幕僚長の言葉が付け足されると、いよいよ陸軍幕僚長は一歩を一方的な悪として批判しようとしたのである。

 しかし、陸軍幕僚長の怒鳴りを受けても一歩は顔色一つ変えず、吹っ切れたように体の力みを解いて退屈そうに自分の磨き上げられた短靴を眺めた。


「それを私に言うことこそ、明らかに異常でしょう。まして"組織存続を優先して有事に迅速な活動をせず、国会承認や法的手順ばかりを優先"し、それこそ護るべきと仰った国民の避難を"急すぎて政府の承認要求の書類が出来てないから"と警察にだけ任せることこそ異常でなのでは?"そんなこと"に拘束されて有事で直ぐに戦えないなら、軍なんてそもそも必要なのですか?」


 一歩は陸軍幕僚長や空軍幕僚長の批判をどこ吹く風に皮肉を呟いた。彼にとって目の前の老人達はいよいよどうでも良くなったのである。そんな一歩が軽く呟くのは自分の属する軍そのものへの批判であり、彼の言葉の後で部屋の空気は凍りついた。


「なっ……」

「一幹部の分際で何をいうか!貴様等は私達がいるお陰で存在できているのだぞ!貴様それでも"自衛官"か!」


 黙って3軍幕僚長を睨みつける一歩を含めて、暫く部屋には声を上げられる者がいなかった。

 だが、皮肉を言われた本人である陸軍幕僚長が開いた口からようやく呻きにも似た言葉にならない音が響き、それに続くように空軍幕僚長が急き立てるような早口で捲し立てたのである。

 その耳を突くような甲高い声に顔を曇らせた一歩は、大きく肩を震わせると目を見開き大きく息を吸い込んだ。


「前線を知らないバカ将校が間抜けな態度を見せるから、現場であなた方が嫌うこういう"士官"が出来上がるのです!情けなく、"命より承認欲求に取り憑かれたバカ国民"を護るため過去に何十万人死んだと思ってるんだ!あの時、私達が攻撃を行い魔獣を駆除しなかったら、"数十人の自殺したい社会常識と学習能力のないバカ共"の為に"何万の国民と隊員が殺されてた"か!」


 一歩は雄叫びのごとく声を上げた。それは彼の心からの叫びとも取れる悲痛さや腹の底から溢れ出る悪感情が隠すことなく溢れていたのである。陸軍幕僚長にも劣らぬその大声は端々に鋭い敵意と殺意さえも隠すことなく出され、その場の誰もが彼の言葉に言い返せなかった。

 それだけ、血走った目を見開く一歩の鬼の形相は凄まじく、一声掛けただけでも殺されそうな冷たい敵意を辺りへ撒き散らしていたのだった。


「あなた方が守りたいのは"国"でも"国民"でもない!"自分達の座るその席"だけだろう!だから議員達におべっかを使うことばかりして!あんたらは"本物の税金泥棒"の為にあと何人殺せば気が済むんだ!」


 そんな一歩の雄叫びは部屋を震わせ続け、吐き出される言葉は3幕僚長を仰け反らせた。最早、彼は理性をかなぐり捨て感情だけに任せて言葉を投げつけているのである。

 今の一歩にとって、部屋にいる自分以外の全員は同じ軍服を纏っているとしても、明確に敵以外の何者でもなかった。


「貴様ぁ……その性根を叩き直して……」

「止め給え、大塚君。昔から君は直ぐに激しやすいらしいが、君がそれでは陸軍のパワハラセクハラは"永遠に"消えんよ?」


 その敵意は当然ながら陸軍幕僚長にも伝播し、言いたいことだけ好き放題言い放つ一歩のその敵意へ彼は拳を震わせた。そして、彼の身に渦巻く不快感が遂に我慢の限界を迎えると、その拳は宙高く振り上げられて振り下ろされた。

 だが、その拳が机を打ち砕く前に部屋に部屋に声が響いた。老成やタバコで嗄れながらも老けた感覚を思わせないその声は、柔らかな口調で陸軍幕僚長のフラストレーションの発散を止めてみせた。それは皮肉混じりながらも茶化してるとは言えないものであり、それ故に陸軍幕僚長は拳を止めたのである。

 行き場をなくした拳をゆっくりと戻す陸軍幕僚長の姿を横目に、3幕僚長の中央の席に座るその男はゆっくりと机に肘を立て手を組んだ。その袖には太い金線が2本も縫われている。その男は軽く組んでいた手をゆっくりと解きつつ指を鳴らした。その弾ける音が部屋に響き、少しの沈黙が流れた後、部屋にはようやく明かりがついた。


「言いたいことはそれだけかね、港君?」

「クレームの類は地球連合か外務省に、"逃げ遅れを自称する"国民と"自分を正義の味方と勘違いしてる"その仲間や"無関係なのに出しゃばる"野次馬には、毅然とした態度で説明しつつ公務執行妨害で反論すべきです。そんな省がいつまでも弱腰だから、"頭の中がお花畑で蝶が飛び回ってるような連中"がつけあがるんです」

「成る程な、良く言う。流石に"西川さんの教え子"なだけある血気だな」


 カーテンが開かれ、まだまだ朝と主張する陽の光が蛍光灯の柔らかな白い光と共に部屋から暗闇を追い払うと、港の視界に3幕僚長の姿が見えた。

 だが、一歩には色黒の肌に深いシワを刻んだ筋肉ダルマのような陸軍幕僚長な細々とした手足にいやに朝日で輝く艶髪の空軍幕僚長も見えていなかったのである。

 剥げ散らかった白髪頭に深いほうれい線とシミの多い肌をした縦長の顔をする海軍幕僚長は、一歩に悪態を言われたい放題されたにも関わらず楽しげにであり、むしろ彼の嫌味の続きを興味深く尋ねた。それだけ、海軍幕僚長には一歩の敵意が刺さらず、彼の罵声は響いていない。むしろ、一歩の続ける嫌味に応じるだけの気概と度量があった。その滲み出る圧は横の2人とは異質であり、一歩は彼と目線をぶつけた。その瞳は不思議と彼の背中に冷や汗を流させ、彼は遂に"老人を気取った軍人"の言葉を前に返答を考えた。


「西川閣下は関係ありません」

「そりゃそうだ。既に退官したOBの指示を受けているなど、軍人以前に公務員としておかしいからな?」

「そもそも、死人から指示など受けられる訳がないでしょう」


 一歩は敢えて皮肉を止めた。それは目の前の男が同じ海軍だからという単純なものではなかった。彼の彼なりに持つポリシーが目の前の男をある程度は認めたからこそ、一歩はたとえ不快であったとしても紳士的になるべきと考えたのである。

 それだけ、剥げ散らかっているにも関わらず海軍幕僚長の男は一歩からしても並の将校ではなかったのだった。

 そんな海軍幕僚長に敢えて休めの姿勢で返事をする一歩の態度に、彼は満足そうに腕を組んで何度となく頷いた。その口調はまるで孫のヤンチャを笑う祖父のような親しみがあるものの、言葉の端には異様な圧があった。

 そのために、一歩は敢えて端的に返したのである。


「そうか、そうだったか。それじゃ今は……」

「"なんのこと"を話してるか知りませんが、大嶺閣下は元気にしてますよ」

「おぉ、そうか!なら、よろしくと伝えておいてくれ」


 一歩の言葉に気まずそうに頬をかく海軍幕僚長は、直ぐに口を開いて言葉を濁した。その態度に少しだけ気分を良くした一歩だったが、彼の言葉へ笑ってみせる海軍幕僚長の親しげな笑みによって異様な敗北感を覚えたを

 結局のところ、一歩の存在やこれまでは目の前の男にとって対して"警戒する程ではない"と思われていることが彼には終始理解できたのである。

 一方で、遠回しな言い方や含みのある表現だけで勝手に話す2人の会話は陸軍幕僚長達には理解できておらず、口調こそ楽しげで明るいながら全く笑みに明るさを見せない会話の不気味さに、ただ黙って静観していたのだった。


「では、これにて」

「わざわざご苦労様」


 一歩と海軍幕僚長の2人だけしか解らない共通認識で勝手に話をしていたが、その終わりも始まりと共に唐突であった。

 言いたいことを言うだけ言った一歩が海軍幕僚長を暫く睨んでいた。すると、その視線に疲れたのか、海軍幕僚長は早々に視線を扉へと向けながら顎で指したのである。彼の行動に一歩はそそくさと10度の敬礼をして一言かけた。

 それが一歩なりの抵抗でなのである。

 それに応じる海軍幕僚長も軽く手を振って一歩を見送りつつ、彼を止めようと席から腰を上げようとする副官達へ顔を向けた。その顔は彼には見えなかったが、すぐ様音を立てて椅子に座り直す彼等の姿に一歩は満足げに部屋を後にしようとした。


「佐藤さん!おっ、おい待て!話は……」

「終わりましたよ!"事前に準備を重ねた小綺麗な現場"しか見たことない、あなた方には何を話しても意味ないでしょうからね!失礼しました!」


 だが、一歩の行動に我慢ならなかった陸軍幕僚長は、海軍幕僚長を名前で呼びつつ彼に詰め寄った。その行動を前に一歩は敢えて彼のことを見ることなく、扉の先に広がる廊下へと踏み出そうとした。

 だが、目の前をシワだらけで手入れが出来ない制服やスーツ姿に死んだ顔を浮かべ、明らかに容量を超えた書類が詰まるクラッチバッグや付箋だらけな書類を挟むバインダーを片手にして先を急いで行き交う男達を見ると、一歩はその場で止まって態とらしく大声で答えた。彼の声は廊下どころか名札と共に並ぶ各部屋にさえよく響き、突然の声に多くの者たちが一斉に視線を向けたのである。その目の下にクマを作る男達の視線に一歩は敢えて扉を大きく開いて部屋の奥にその光景を見せると、短靴の足音を響かせて部屋から去ったのだった。


「あの小僧ぉ……調子に乗りおってからに……」

「しかし、彼の言うことは正論以外の何物でもない。実際に彼は今でこそ外務省職員だ。彼を登省させたり説明を求める権利はあっても避難や罰する権利はないからな」

「とはいえ、私達へのあの態度はなんですか!一端の3尉の分際で私達に……」


 一歩が後にした部屋の中には再び沈黙が流れ、海軍幕僚長は背もたれに深く倒れ込み指遊びを始めた。その姿を他の全員がただ黙って見つめていたが、誰もがお互いの様子を伺い合うだけで口を開くことはなかった。

 その場の誰もが"口は災いの元"ということを理解し過ぎていたのである。

 とはいえ、数分も沈黙が続くと当然ながら我慢できない者も現れ、陸軍幕僚長は荒れ狂う嵐の如く怒鳴り、そのフラストレーションを辺りの物へと叩きつけた。そんな彼の姿に海軍幕僚長は冷ややか視線を一瞬だけ向けたが、直ぐに指遊びへと再び視線を落として呟いた。そんな彼が"一歩のワガママ"を受け入れる態度は当然残り2人には納得できず、陸軍幕僚長は拳を震わせ空軍幕僚長は思わず口を開いて意見した。

 だが、海軍幕僚長はそんな2人の態度や意見を気にすることなく指遊びを止めて天井を見上げた。その瞳は天井よりも遠いところを見るようであり、彼は1人だけ同じ空間にいながら別な世界にいるようなのである。


「君達、彼が"ああなった原因"は私達にあるのだよ。彼や彼の仲間たちからすれば、私達や"更に上の連中"は今すぐにでも首を絞め八つ裂きにして市中を引きずり回して首を斬りたいだろうさ」


 そして、ようやく開いた佐藤の言葉は暗く、一歩と話していたときのような威圧感や迫力はなかった。それは年相応の老人的な響きであり、何より不思議と聞くものに虚しさを与えるのである。

 その言葉に副官達こそお互いを見合って肩をすくめるも、幕僚長2人は全てを察したように顔を青くしたのだった。


「"彼等"は"全てを奪われた復讐の鬼"だからな……」


 カーテンの開かれた窓からは、新宿の景色がよく見える。その光景へと視線を移した佐藤は、1人静かに呟いた。

 ただ、虚ろな佐藤の瞳が記憶と混ざり見せるのは青々とした空でも高層ビルの建ち並ぶ大都会ではない。それは燃えて崩れる街並みと、炎と煙に照らされる空なのであった。

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