異管対報告第3号-2

「こっ……ここは……」


 サブリナは困惑した。彼女は何故か一糸まとわぬ全裸であり、己の恥部を隠そうとした。

 しかし、そんな異様な状態にある自身より、サブリナは今いる場所に眉をひそめながら何も触れられない手足の先をバタつかせつつ辺を見回し呟いた。

 サブリナは、眼下に地球を望む|宇宙〈そら〉にいた。

 その星の光さえも飲み込む宇宙の中で、サブリナは手足の動きで能動的質量移動をしようとした。だが、慣れない無重力を前にして彼女は全く方向転換も移動も出来ず、ただゆっくりと宙返りするだけなのである。


「夢だよ。ただの夢、目覚めれば忘れる夢」

「夢……だと……」


 そんなサブリナの月へ向けてしていた回転が緩やかになる頃に、どこからか彼女へ唐突に声が響いた。その声は彼女と同じ女の声であれど、低くはっきりしたハスキーボイスである。

 それはサブリナの全く聞き覚えのない声であり、だからこそ彼女はオウム返しで呟きながらその声の持ち主を必死に探そうと意味のない手足の動きを更に大きくして、胴のひねりさえも加えて周りを探索しようとした。

 だが、最初に得ていた回転のエネルギーを殺しきれないサブリナは、ただゆっくりと月を正面に捉えるように回転していったのだった。


「お前は一体誰だ!一体……」


 そして、サブリナは目の前に現れた女に叫ぼうとした。

 その女はサブリナと背格好は全く変わらず、白い肌の細い腕を組みながらただじっとその鋭い瞳で彼女を見つめている。無重力によってゆっくり漂う女の青緑に染まった短い髪は、彼女の頬を擽った。その髪を彼女が耳の後ろへかけると、女の右頬にまるで小さな三角を描くようなホクロが目立つのである。

 そのホクロを見た瞬間、サブリナは雄叫びを急に止めると、半端に開いた口からは続く言葉は出なかったのだった。


「なんで、うちは……泣いてるんだ?」


 サブリナの感情は口から言葉としててはなく、瞳から涙として出てきたのである。それは明らかに目の前の女の登場によるものであり、嗚咽さえ出て宙に雫を上げる涙を前にして彼女は輝く涙滴と女を交互に見て呟いた。

 そのサブリナの揺れ動く視線を前にした三角ホクロの女は、一瞬だけ頬を緩め、直ぐに歯を食いしばりながら目尻を指先で軽く撫でたのである。その指先から輝く雫が宙へと放られると、サブリナは彼女を再び凝視したのである。


「それはきっと、貴女の中にあの人がいて、あの人の中に貴女がいるから」

「あの人……?」


 サブリナの視線を真っ向から受け止めるホクロの女は、まるで溜息をつくかのように呟いてみせた。その含みのあるはっきりしない言葉はサブリナの理解を置いてけぼりにしており、彼女は小首をかしげつつただ目を細めた。

 そんなサブリナの眉をひそめて尋ねる言葉はホクロの女に届いたのか怪しい程度に小さく、彼女は自身に投げかけられた言葉を無視して無重力の中をまるで水中かのように動き始めた。そのシンクロナイズドスイミングのような動きに視線を奪われたサブリナはホクロの女と距離が縮まっていることに気付かず、2人は一瞬の間に鼻先まで側に寄っていたのである。

 至近距離でホクロの女と見つめ合うサブリナは、頭に駆け巡る言葉が何故か喉元で堰き止められ替わりに涙が吹き出す感覚だけに支配された。


「不服だけど、私がきちんと側にいてあげられない分、足りない所を支えてあげて。あの人は、本当はどこまでも意気地がなくて弱い人だから」


 そして、ホクロの女はサブリナの耳へ口を寄せると、軽く囁きその外耳を一舐めすると彼女の肩を押して宙へと突き飛ばした。

 その意味ありげな発言と耳を舐めるという奇行に身を強張らせてしまったサブリナはホクロの女の行動に対応出来ず、押された勢いに従って後へと吹き飛ばされたのだった。


「待て!どういうことなんだ!そもそも……」

「でないと、一歩さんは……」


 手足を必死にバタつかせるサブリナだったが、勢いは止まるどころかより一層強くなり、背後の地球へ向けて体は吸い込まれるように落ちている。その落下の中でサブリナは遠ざかる女の後ろ姿へと手を伸ばし叫んだ。

 サブリナのその叫びはホクロの女へと届き、彼女は顔だけ向けて呟いた。その言葉はまるで壊れたスピーカーのように途切れるると、黒い宇宙から大きな影が現れた。


「なっ、なにぃ!」


 女を包むように広がる巨大な影はサブリナへと迫りつつ形を変えていった。それはまるで龍とも虎とも言えぬ巨大な何かであったが、サブリナはただ背筋を凍らせるその強大さを感じ取ったのである。

 その恐怖はサブリナに怯えの声を漏らさせた。


「うっ……うぅっ……」


 だが、叫んでもその巨大な影は止まることなくサブリナへと勢いよく迫り、その形を様々に変えて襲いかかろうとするのである。それから逃れようとしても、サブリナの手足や体の激しい動きは空を切るだけである。

 そして、黒い影はサブリナの目の前に着く頃には巨大なドラゴンの姿となった。その姿はサブリナの身を強張らせ、声帯さえも凍りつかせたのである。それ故に、震える瞳で叫ぼうとする彼女の口からは嗚咽しか聞こえない。

 そして、迫る影を前にしてサブリナはただ両手で顔を覆い、手足で体を護るように小さくなるしか出来なかった。そんな無力な彼女を影は口を広げて迫り、サブリナはその口の中へ呑み込まれていった。


「うぁあ……」

「ワンッ!」


 サブリナは困惑した。彼女は白い毛糸にファーの付いたパジャマを纏い、己の身を温めようと掛け布団に包まっていた。

 しかし、そんな熟睡出来る状態にあった自身より、サブリナは睡眠から急な覚醒により強張る声帯と、響き渡る鳴き声や冷たい飛沫によって自分いる場所について眉をひそめながら辺を見回し呟いた。

 サブリナは、一歩の実家で自分に割り当てられた部屋のベッドの上にいた。

 その朝日がカーテンの隙間から部屋に差し込む光の中で、サブリナは上半身の動きで能動的にベッドから起き上がろうとした。だが、肩に両前足を乗せて舌を出し尻尾を振る1匹の犬を前にして彼女は全く方向転換も移動も出来ず、ただその場で犬の眉や口元の白毛と灰毛が生えて湿った黒い鼻が朝日に輝く顔を目を丸くして凝視するだけなのである。

 サブリナの悪夢の原因の一部は、いつの間にかのしかかっていた港家の飼い犬なのであった。


「ライアン……だったか?このイヌッコロめ、いつの間にうちに乗っかってたんだ?」


 サブリナの上に乗っているライアンと呼ばれた犬はミニチュアシュナウザーである。そのドイツを祖国に持つ犬は、古くからドイツにいたスタンダード・シュナウザーの小ぶりな個体を基礎に小型化した、農場のネズミ退治などを行う農場犬である。

 しかし、ライアンと呼ばれた彼は、シュナウザー特有のボックスタイプの凛々しいボディと異なり短い手足に少し長めの胴という、"ティッシュボックス"な体型をしている。その小ぢんまりした体躯に短い尻尾を振るライアンは、白い眉と口髭に垂れた耳を揺らしながらサブリナを見つめているのであった。

 "最良の家庭犬"というあだ名に不釣り合いな眠っている者への激しい起床を促す行動を前に、サブリナはライアンをジト目で見つめつつ寝起きの喉がしっかりしていない弱々くい枯れた声で悪態ついた。その言葉もほとんど口の中で消える程度のものであり、彼女は再び睡眠へ戻ろうと瞳を閉じた。

 だが、ライアンはサブリナの瞳が閉じた瞬間にその場で跳ね上がり前足を猛烈な勢いで掻きながら布団を彼女から引き剥がそうとしたのである。


「こらっ、やめっ!やめろ、解った起きる!起きるから!」


 その"荒々しい目覚まし"は布団を剥がすことだけでは終わらず、抵抗しようとするサブリナはライアンから何度となく顔を舐められた。生温かくもざらつくライアンの舌で顔面を磨かれたサブリナは、なんとか腕ずくで抵抗しようとするも、その小柄ながらに強い力と柔らかい毛と命の温かさを前に断念したのだった。

 そして、されるがままのサブリナはライアンがベッドから落ちない程度にゆっくりと上体を起こして彼の顔や頭を撫でつつベッドを離れた。

 すると、ライアンは早々に彼女の部屋の扉へと勢いよく駆け出して行き、廊下を駆け抜けていった。


「何なんだ、いきなりやってきていきなり去ってくのか……」


 そんなライアンの"テチテチ"とでも効果音が付きそうな後ろ姿に、サブリナは口をへの字に曲げて文句をつけつつ大きく背伸びをした。差し込む朝日に軽く手足を動かし体を伸ばす彼女がいる部屋は縦長の部屋であり、白やフローリングと同じ木材を基本にしたシンプルな部屋である。そのシンプルさは書物机やベッドに至るまで凝った装飾や余分な機能のないものであり、家具を含めた物の少なさは女性が寝泊まりするには収納が少ない。

 その点を補うためにあちこちにはプラスチックラックやケースが増設され、何とかサブリナが生活出来る程度のものとなっている。


「まだ7時じゃないか……休みの日になんでこんな……んっ?」


 そんな物の少ない部屋の中で、サブリナは机に置かれた新品でも古風なデザインの目覚まし時計を見つめた。その長針と単身はブレることなく午前7時を指しており、彼女は解した寝起きの体の肩を落として呟いた。そんな自身の言葉は再び体をベッドへと促すと、サブリナはせっかく起こした体を横にしようと手をついた。

 しかし、サブリナは直ぐにその身の動きを止めると扉の方へと視線を向けた。そこにはまるで部屋の中を伺うようにライアンが覗き込んでおり、白い眉やヒゲが顔の半分だけ扉の敷居から見えていたのである。黒い瞳が真っ直ぐにサブリナを見つめ、彼女はそのつぶらな視線を前にしてベッドに掛けようとした体重移動を止めた。


「わかった、行くよ。行けばいいんだろ?」


 まるで溜息のように鼻息をつくライアンの姿は不思議と人間味のあるものであり、サブリナは露骨に呆れられたような感覚になったのである。

 そして、心に渦巻く後ろめたさはサブリナを再び立たせ扉へと足を向けさせた。その足にライアンが寄り添い廊下を進むと、サブリナは真っ直ぐにリビングへと向かった。それは朝の空腹感を満たしたいという感覚故でもあったが、何より居候である彼女は起きた以上やらなければならないことがある。


「アンちゃん、朝ごはんだよ!あら、サブリナちゃんも起きたの?」

「おっ……おはよう……雅美殿……」

「おはよう、サブリナちゃん。朝から硬いというか、あのバカ息子が居ないとちっちゃくなっちゃうのね。アンに起こされた?」


 大いに広々とした空間の広がるリビングは、薄型テレビに横長の革製ソファにテーブルとイス、キャビネットや電話台に水槽が置かれているほどものが多かった。そんな家具達はどれも年季を感じさせる傷や汚れがある。そんな物の多いながらも広い空間を感じさせる部屋には朝日が窓から差し込み、その先にはバルコニーさえも見える。

 更には和室も奥に見える程に広々としたリビングには食器の音が響き、その脇に広がっているキッチンから1人の女が出て来た。その女は大きく声を張りながら犬用のご飯皿と台を片手にリビングを首を振って見渡したのである。

 サブリナから朝の挨拶をされた雅美と呼ばれる女は、茶髪の長い髪に高い鼻と若い頃は美人だったと思わせるそれなりに整った顔立ちである。その顔も年輪であるシミやソバカス、シワが刻まれているが、彼女はそれを全く気にさせない若々しい活気のある一歩の母なのだった。

 つまり、化粧こそすれば外観もであるが雅美は"内面特化の美魔女"な女なのである。

 そんな彼女に肩を縮こませ両手を組みながら上目遣いにかしこまった挨拶をするサブリナへ、雅美は肩をすくめて笑いなが挨拶を返した。その挨拶に混ぜ込まれた茶化しにサブリナは僅かに眉をひそめるも、食事を察し雅美の足元を走り回るライアンを見つめたのだった。


「ベッドに突撃された……」

「あらまっ、珍しい。この子がご飯以外でそんなに懐くなんて、もう一歩だけなのに」


 そんなサブリナの視線や苦々しげな言葉を無視して朝食のドッグフードに食らいつくライアンを横目に、雅美はキッチンからトーストや目玉焼きをテーブルへ運びつつ彼女の言葉に返した。僅かに目を丸く、雅美の一言は少しだけ口調が暗く、窓の外を少し眺める視線の遠さにサブリナは小首を傾げた。

 しかし、サブリナはその雰囲気を気にせず雅美の手伝いをしてテーブルに朝食の準備をしたのだった。


「休みだったのに……」

「休みくらいお昼まで寝たいって気持ちはわかるけどね。まぁ、"早起きは三文の得"っていうし。なにより構って欲しかったのよ、この子」


 朝食の用意が出来て席につくサブリナと雅美はトーストや目玉焼きに齧り付きつつ何気ない朝のひと時を過ごそうとした。それはまだサブリナがお互いの距離感を掴みかねているからこそであり、雅美が殆ど一方的に話すだけである。それでも、居候最初期のサブリナと比べれば圧倒的に雰囲気も軽く、話しかけられながら食事出来る程度に余裕がある。それだけではなく、いつの間にか食事を終えて自分の足元をふらつきながら空いた椅子に飛び乗り座りながら見つめるライアンの存在に気付ける程度に、サブリナは港家の環境に慣れたのだった。


「"毛玉"め……」


 椅子の上で犬座りにしては後ろ足を放り出している人間の子供のような座り方で食事姿を見つめるライアンに、サブリナは少しだけ目を細めるながら頭や顔を撫でた。その指についたパン屑を舐めるライアンの愛くるしい姿に一言呟く彼女は少しだけ笑いながらその席に座っていてもおかしくない1人の存在を思い出した。


「そういえば、一歩……さんは?」

「いいのよ、呼び捨てで。最初はこんな小さい子がいきなり同居だなんだと驚いたけど、まともな娘が1人出来たみたいだし。普段通りでいいから」


 サブリナの疑問に答える雅美は窓の外から見える防衛省の巨大な通信鉄塔を視線で指しつつトーストを齧って呟いた。

 だが、その視線や一言もサブリナの朝食を強奪しようとするライアンによって遮られ、雅美は苦笑いしながら立ち上がるとキッチンへ向かった。


「それで……おい、お前朝ごはん食べたろが!」

「ほら、アン!歯磨きガムだよ!」


 1人と1匹の攻防は忙しなく、頭を突き出し皿の上のハムを奪おうとするライアンをサブリナが必死に抑えるのである。

 その攻防も早々にキッチンから出て来た雅美が持ってきた小さい歯ブラシ状のタブレットガムを見たライアンが彼女の足元へ駆け寄り御手を連発することによって集結したのだった。


「それで、一歩はどうしたんだ?今日は休みのはずだが?」

「あら?珍しく制服着込んで出てったけど、休みだったの?朝からグジグジ"防衛省でボケ老人の接待は嫌だ"とか言ってたけど」

「なんだとっ!」


 歯磨きガムに食らいつき満足気なライアンを横目に砕けた口調のサブリナは、ようやく一歩のことをきちんと雅美へ尋ねられた。朝食を胃に入れた満腹感とそこに至るまでの騒動が彼女の心に余裕を生んだのである。その柔らかな口調を前にして嬉しそうに腕を組む雅美は、一歩の口調を真似して朝の一幕を説明した。

 説明を聞いたサブリナはその場で立ち上がり、思わず声を張った。その己の突発的な行動やいきなり激しく動いたことで雅美とライアンの視線が突き刺さると、彼女は俯いて席に座り直したのである。


「いや……なんでもない……」

「優しいのね、サブリナちゃんは」

「そんなんじゃない」


 俯きパン屑しかない皿を見つめるサブリナは頬を膨らまして小声で呟いた。それに雅美がニヤつきながら話しかけると、サブリナは再び立ち上がり空いた皿を手にキッチンへ足早に逃げたのである。

 その背中で雅美へと文句をつけたサブリナは、テーブルに戻ると少しだけ黙って瞳を閉じ、少ししてから敢えて胸を張って背筋を正した。


「サブリナちゃんはいいんじゃないの?一歩はあれでも一応軍人だから、何か込み入った仕事があるんじゃないの?」

「"バディっていうのは相棒"であり"行き先くらい伝える"と"浅見"が言ってたぞ!」


 急に姿勢だけでも改めるサブリナへ雅美はテーブルに頬杖を突きながら笑ってみせた。その不敵な笑みに続く言葉は彼女としては言葉通りのものであった。

 しかし、サブリナからすればそれは大いに発破をかける言葉であり、それに彼女は思わず大口を叩いたのである。

 それは確かにサブリナとして一歩のことをそれなりに相棒と理解しようとしての発言だったのだが、雅美からすれば彼女の言葉は受け売りを披露したいだけにも見えるのであった。


「成る程、"見聞きしたものに影響されやすい"ってこういうことね……」


 そんなサブリナの自慢げな言葉に、雅美は自分の息子の言葉を思い出した。それが彼女には彼なりの自虐を含めた皮肉とも思っていたが、サブリナの態度はその皮肉そのものなのである。

 そんなサブリナの姿に雅美は少しだけ幼い頃の一歩の姿を重ねると、にやつく笑みが抑えられなかった。


「防衛省って言ってたんだ……ですね?」

「そうだよ。"市民が気付く訳でもないのに小さなシワや汚れをネチネチ指摘される"からって制服着るのを忌み嫌うあの子が、わざわざ"クリーニングのビニール剥がしてまで"ってなると防衛省以外にないと思うよ」

「防衛省……か……」


 にやつく雅美の笑みに小首を傾げたサブリナだったが、彼女はすぐに本題を真っ直ぐに尋ねかけようとした。そんなサブリナの真っ直ぐに刺すような瞳には圧倒され、雅美も息を飲もうとした。

 それでも、語尾の乱れた口調を前に一瞬だけ吹き出しそうになった雅美はサブリナへ一歩の口真似混じりに答えたのである。その答えにサブリナは真顔で力強く呟くと、直ぐに立ち上がり自室へと向かおうと歩き出した。


「サブリナちゃん、そういえばなんだけど」

「何じゃ……ですか?」

「いやね、愛子が昔ほんの少しだけ着てた良いスーツがあるのよ。クリーニング出したまんま放置してるのも可哀想だし、あの子とサブリナちゃんは背格好が似てるから」


 決意を足取りや風斬るような肩で魅せるパジャマ姿のサブリナの背に、雅美はゆっくりと立ち上がり呼び止めた。その言葉に振り返って返す彼女は少しだけ訝しげであり、何より雰囲気を崩されたことへの不満感が滲み出していた。

 それでも、雅美の楽しげに語る一言に直ぐに食らいついたサブリナは、彼女へ駆け寄るとその顔を鼻の付きそうな距離で凝視したのである。


「貸してくれるのか!」


 サブリナの満面の笑みは顔立ちから無邪気に見え、雅美はその表情の変化の落差に驚きつつも彼女を自室のクローゼットまで肩を掴んで導いたのである。

 雅美の自室はリビングまでの廊下の途中にあり、その隣には愛子の部屋があった。その廊下の突き当りに一歩の部屋があったが、4つの部屋はどれも既に人の気配はない。


「私も受け売りを言うならね、"よいスーツを着て、第一印象を操作しろ"かな」

「私の着てたやつは良くないのか?」

「異管対で貰ったんだけっけ。AOKIを悪く言うつもりはないけどね。"安かろう悪かろう"ってことかな?」


 雅美の自室に実質的に押し込まれたサブリナは、床に置かれた収納スペースに収まりきらない服や積み上げられた本、何故か3個もあるスーツケースに目を丸くしながら部屋を見回した。ある程度のものは仕舞われているものの、ギターやウクレレ等といった楽器まであり部屋はベッドの上以外は混沌としている。

 そんな部屋をそそくさと進む雅美はクローゼットの扉を開いて中を探りながら得意げにサブリナへ語ってみせた。その手には何度となく黒や紺の服が掴まれては戻されを繰り返し、彼女の受け売りに言葉を返すサブリナも呆気に取られほどである。その視線に気付かない雅美は更に持論を楽しげに語ると、サブリナはいよいよ1人分とは思えない服の量に開いた口が塞がらないのだった。

 だが、ようやく雅美の手が止まると、クローゼットの中からクリーニングのビニールに包まれたスーツが現れた。


「いいスーツって言うなら、ハイブランドでないと」


 雅美がビニールを取り払うと、そこには黒のレディーススーツが上下セットでハンガーにかかっていた。部屋の光を吸い込むように煌めくジャケットの黒い生地は明らかにカシミヤであり、それだけで異質な存在感を放っている。それに合わさるパンツもストレッチウール素材で縫製された、明らかに高級感が感じられるものなのであった。

 そんな上下合わせて十数万円以上する品を雅美から手渡されたサブリナは、恐る恐る手を伸ばすとハンガーの銀色の引掛け部分をつまんでジャケット襟を覗き込んだ。


「"ぶるっくす"……"ぶらざーず"?」

「一歩が愛子の転職を応援するって買ったんだけど。まぁ、"あの子のセンスにしてはよく頑張って選んだ"とは思うんだけどね」

「そう……なのか……?」


 襟のブランドロゴを片言英語で読み上げるサブリナは頭と瞳にハテナを浮かべた。それだけで彼女は服のブランドに頓着していないのである。

 しかし、サブリナと真逆である雅美からすると、あまりにシンプル過ぎるそのジャケットとパンツはクローゼットの中の服と似たりよったりであり、故にその中の有象無象となってしまったのだった。

 そのため、サブリナは"クローゼットの他の服とどこに違いがあるか解らない"ながらも、雅美の渡したスーツを震える手でハンガーから外しつつその腕に掛けたのである。


「なら、心置きなく着させてもらおう!」


 ただ、服に頓着していないサブリナも高級品を借りるということに頭を深く下げると、雅美へ礼の言葉を述べつつ早速自室へと駆け出していった。

 そんなにサブリナの後ろ姿に新社会人となったばかりの娘の華やかさを思い出した雅美は、腕を組んて頷きつつふと天井を見上げて笑った。

 だが、雅美はサブリナへシャツを渡してないことに気付くと再びクローゼットの海へと飛び込んだ。


「それで……」

「んっ?どしたの?」


 だが、数枚のシャツを手に取った雅美に、少し前に自室へと去ったサブリナが歩み迫り、苦笑いを浮かべながら話しかけるのである。その言葉に返す雅美だったが、彼女の濁した語尾に少しだけ片眉を上げて小首を傾げた。

 そして、雅美の目の前で掌を合わせて窓の外を見るサブリナは、態とらしく笑ってみせた。


「防衛省って……何処?」


 そんな無力なサブリナの言葉に、雅美は驚きと呆れでクローゼットの服の中へ呑み込まれていった。

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