異管対報告第2号-3

「はっ……はっ……はっ……」


 一歩はひたすらに走っていた。砂利や泥濘んだ道を半長靴で踏み締めて、コンクリート片やガラスを蹴散らし、倒木や倒れたブロック塀を乗り越え、彼は息を切らして走り続ける。既に思考はただ前を進むことばかり考え、青い迷彩が泥や埃に汚れシャツに染み込んだ汗がさらに滲む不快感さえ彼は気にならなかった。両手に握りしめる古代兵器となってしまった64式小銃や弾帯、防弾ベストの重さえも彼にはなにも感じなかった。

 一歩はただの青い空の下に広がる崩れた民家やビルの広がる灰色の廃墟へ吹く一筋の風となっていたのだった。


「なんでっ……なんで!」


 サブリナは1人歩いていた。そこは廊下であり、どす黒い大理石のような滑らかな石で作られたそこには金銀のアラベスク模様が刻まれていた。壁に等間隔で嵌められたステンドグラスは色鮮やかな赤や紫、オレンジの光で廊下を照らしていた。その窓の中の1つは開いており、そこから望む空はどこまでも血のように赤くオーロラのように光り輝き、浮かぶ月は異様に青く輝いている。

 薄気味悪く赤黒く対流する星月夜は決して現実では見られない異質さを見せ、窓から見えるは街は空と変わらず不気味な色を広げていた。

 その怠惰の街を見つめながら、光さえ飲み込みそうな細身のドレス姿のサブリナは地獄の屋敷に癇癪めいたヒールの音を響かせたのであった。


「はっ……頼む……頼むから無事でいてくれ……」

「こんなこと、絶対に嘘だ……」


 だが、2人はこれが現実ではないことが良くわかっていた。それは、目の前の光景が過去に自分が見たものであり、格好から行動まで全てが過去のワンシーンと理解していたからである。何より、これから起こることを理解してる2人はこれを現実と認めたくなく、たまたま見た悪い夢と思いたかった。

 何より、一歩とサブリナが今の状況を現実と思えない理由があった。


「クソっ、クソがっ!こんなこと許せるか……金食い虫な背広組の糞共め!こんなの許せるものか!」

「どうしてこんな……家族同士で!」


 一歩とサブリナの視界はお互いの視界を半分ずつ共有していたのである。それどころか手足や体の感覚さえも半分で区切ったようであり、瓦礫の中を駆けているはずの一歩の左足は異様に平坦な硬い床を感じ、左手や左肩の装備の重さや汗で体に張り付く衣服の感覚も肌寒さと絹か麻のような布の擦れる感覚へと切り替わっていた。

 その感覚の共有はサブリナも同様であり、異様に歩き辛い右足は平坦な床で躓きそうになッタと思えば、右半身に覚える重さや熱と湿気に何度となく乾ききっているドレスの襟首から風を内側に流し込んだのである。

 その異様な感覚は先に進めば進むほどに悪化を続け、いつしか左右の半身に別れていた感覚は腰から上下で互いのものと共有したり、視界や全身の感覚のみ互いのものを感じたりとチグハグになっていった。


「奈緒さん!奈緒さん、どこだ!」

「父上!父上は戻られたのか!父上!」


 それでも体は互いに感じる"これ以上進みたくない"という感覚を無視して前に進み、どれだけぎこちない動きとなっても歩みを止めなかった。もはや一歩は海上自衛隊の迷彩に戦闘装備で身を固めメガネを掛けるサブリナ姿での地獄の屋敷の瓦礫だらけの廊下をヒールで踏みしめ、サブリナはドレス姿の一歩の姿で廃墟の街をドレスのスカートを掴みながら半長靴で石の床を甲高く鳴らしながら駆け抜けたのである。

 もはやデタラメで入れ代わり立ち代わりズレてゆく視界と感覚に足を取られバランスを崩しながらも一歩は黒い廃墟の廊下へ必死に呼びかけ、サブリナは開けた黒い星月夜の屋敷で声を上げたのである。

 そして、2人は奥底にしまい込んだ記憶の蓋を開けた。


「奈緒……さん……?」

[なんだ、貴様?この青い連中の仲間か?他の奴らはもう死んだ。大して旨くもなかったが]



 屋敷の大広場は青々とした芝生に噴水や見上げるほどの彫刻が立ち並んでいた。その芝生の上には焼け焦げた瓦礫が未だ煙を燻ぶらせ、その上に無数の血肉が広がっていた。それは四肢を裂かれて口から赤黒く青い血管を吐き出す者やまるでソフビフィギュアのように上下に千切られ腸を辺りに撒き散らすもの、頭を潰され赤い糸のように細長い視神経の付いた眼球や淡黄色い脳漿を撒き散らす者と様々だった。だが、一歩にはそれが全て仲間だった者とわかる。それは、全員が青い迷彩を身に纏い、熱の残る薬莢を撒き散らし古びた小銃を最後まで握っていたからであった。

 そして、瓦礫の中央に小山のように盛り上がったアパートのような残骸の上を見上げ震える声で呟く一歩に、声がかけられた。その声はまるで穢れなく透き通るような女の声であり、まるで天使か絶世の美女のようにさえ思える声である。その実、声の主は赤黒い血や臓物がよく映える白い肌にウェーブのかかった紫の長い髪、赤い瞳に黒い眼球のはっきりとしながらも無駄のない整った顔をした美女である。その胸元はたわわに実り、細い手足と括れた腰は、男女問わず魅了してしまいそうな美しさであった。

 しかし、その腰から下は3階建ての建物を優に超えるほどの鱗を持つ龍の胴体のようなものが生え、そこから4本のガチョウの足が伸びているのである。さらに、龍の胴体は蛇の頭をしたしっぽを伸ばし、血塗れの女の背中から牛と羊の首が返り血塗れで生えている姿は紛うことなき化け物だった。


「父上……?」

[サブリナ……私は……妻を……]


 一方、サブリナの前には一人の男が立っていた。だが、晴れ渡る青空ながらに男の姿は影となって大柄な輪郭しか見えず、嗄れた男の震える声が彼女に答えるのみだった。

 そんな父の言葉にサブリナは口元を手で覆い、目元に少しずつ涙が溜まっていった。既にこのあとの言葉を知っていながらもサブリナは何度も首を振り父親の言葉を止めようとした。


「おっ……お前……お前は……いま何を……食っている!」

「父上、言うな!言わないで!」


 一歩は目の前の化け物に尋ねかけた。それは化け物の人型部分はその手に人の胴体を持ち、背中の獣の顔はその口に無理矢理千切られたのか筋繊維を何本と見せる手や足を加えていたのである。羊の頭に飲み込まれてゆく左手薬指に見える指輪と、女が齧り付く胴体の首が地面に落ちて一歩の顔を見たとき、彼は何度となく見たフラッシュバックに絶望を堪えられなかった。

 サブリナの叫びも、父親の黒い影にはまともに聞き入れられず、彼は必死に言葉を止めようとする彼女の身振りを無視して口を開こうとした。

 過去の記憶の繰り返しであり、現実ではないと知りながら一歩とサブリナは何もできなかった。瓦礫へ落ちて行く短く黒髪の頭に彼は足を震わせただ頬へ一筋涙を落とし、父親の言葉を聞かないように彼女は耳に手を当てその場で蹲った。

 強烈なトラウマに打ち勝ち平静でいられる程、一歩とサブリナの精神は異常ではなかった。


[あぁ、この女か?"旦那が戦って……"云々煩いから食った。何より私は"生命の味方"なのに武器を向けるなんて頭がイカれてる]

[私は……母さんを殺した!人間と条約を結ぶためとはいえど、反対する母さんと戦って……お前の母さんを倒したんだぁ!]


 だからこそ、一歩はまるでボールのように化け物から拾い上げられる食い千切られた光のない瞳の妻に言葉を失い、サブリナは父の生気の無いめに絶句した。

 もう、2人の感覚に壁はなかった。


「奈緒さんは……奈緒さんなんだぞ……」

「なんで……なんで止めなかった……」

「お前ら悪魔は見境なしか……人間なら何でも殺していいってか……」

「父上の力なら、こんな馬鹿げた事は止められたはずだ……父上……アンタは……」


 お互いの心の波にぶつかる一歩とサブリナの絶望は2人の心を掻き乱し、言葉にならない言葉と止まらない涙は2人の絶望をあの時と得られなかった怒りに変えた。


[人は動物を食うだろ?植物を食うだろ?すべて生きてる。それなのに、お前達だけ食われないなんて不自然だろう?なんだ、お前コイツの番か。ならなんで側にて護っていない?それならコイツは……]

[母さんは……疲れておかしくなってたんだ。戦争で戦い多くの者を慰め癒やして……多くの悪意や恐怖を受けながらもそれらを浄化し続けた。こんな無意味な戦争のためにあんなことをし続けた母さんは限界だったんだ。サブリナ、母さんは……]


 遂にはボールのように短く艶のある黒髪をめちゃくちゃに乱す奈緒の頭を宙へ放る化け物と言い訳を始める父親の姿は、記憶の中の過去を大きく変え始めた。それはもはや妄想の世界であり、歴史に出してはならない"もしも"の世界である。


[[死んで当然なんだ]]


 もしもの妄想世界だからこそ、過去の何もできない苦しみとその先の事をしる2人の怒りは爆発した。


「「お前ぇぇええぇぇあぁあぁぁああ!!」」


 一歩とサブリナはただ前に駆け出した。もはや2人の感覚はどちらが誰のものか解らなくなっており、父親に小銃を構えるサブリナは我武者羅に撃鉄を落とし、一歩の腕はまるで獣のような羽毛と棘、鉤爪の生えどす黒い靄のような何かを纏う異形に変化していたのである。

 銃口からの小銃弾と排莢口から空薬莢が止めどなく吐き出され、サブリナの右肩を何度も殴られるような感覚が走り一歩の右肩が激しく揺り動かされた。その衝撃でも止まらぬ一歩は美女になりそこねた化け物へと飛びかかり、サブリナは遂に空になった弾倉を捨てると銃剣を取り付けた。

 そして、2人は雄叫びと共に突撃を始めたのだった。


「ぐふぅぉ!」

「げはっ!」


 しかし、その雄叫びも瓦礫や石の床を砕くほどの足取りも虚しく、2人は腹を引き裂き内蔵を撒き散らしたと思えるほどの衝撃を前には吹き飛ばされた。そのエネルギーは凄まじく2人は数秒間地面に接することなく対空し、一歩は彫刻の像に、サブリナは瓦礫の山へと激突した。その衝撃は既に内蔵が千切れ胃や腸が縮み上がっていた2人へ追い打ちをかけると、圧迫された肺が2人の喉から紙袋を潰したような大きい音を響かせたのである。


[人間ごときが、この私に挑むのか?この大罪の一柱にか?愚かな]

[子は親を超えられるものか。これはやむを得ないことだ。それでも、お前も私に刃向かうのか?]


 美人モドキの蛇の頭の尻尾といつの間にか人型からただ巨大なドラゴンのようなシルエットとなった父親から伸びる細長い尾によって、一歩とサブリナは一撃で動けなくなってしまった。


「黙れ……俺は……」

「私は……うちはそんなのどうでもいい……」


 内蔵の位置が乱れに乱れ、胃と位置が逆転した腸が肺や心臓を圧迫する胸の猛烈な詰まりと痛みを前にしながらも、一歩とサブリナは呻きながら震える拳を地につけ立ち上がろうとした。

 いつしか口や目からは血が流れ落ち、ズボンやスカートは内臓から吹き出した血によって赤黒く染まっていた。それでも、2人は子鹿より震える足を必死に地につけ、勝てないと知りながらも目の前に聳え立つ影に復讐の眼光を向けたのである。


「俺は……」

「うちは……」


 そして、一歩とサブリナは再び駆け出した。


「「お前を殺したいだけだぁぁぁあぁあ!」」


 もう2人に思考などなかった。ただ目の前の怒りと憎しみ、不快と後悔の元凶を叩き潰すことしか頭になかった。覚束ない足取りを手を前脚代わりにしてまで立たせ、血混じりの唾と涙の飛沫を上げるその姿は野獣以外の何物でもない。


「「うぉおおおおぉぉおおぉ!」」


 1匹の獣は、目の前の獲物へ雄叫びと共に突き進んだ。


[[勇気と無謀を履き違えるなぁ!]]

「「ぐぁう!」」


 それでも、結果は変わらず一歩とサブリナは再び吹き飛ばされた。もう、2人の視界は血によって真っ赤に染まり、瓦礫の山の廃墟にいるのか石造りの屋敷にいるのか、ドレス姿が一歩なのか迷彩服がサブリナなのか、何もわからなくなった。


[私に挑みかかるその根性は認めるよ。アンタ結構イイ男ね]

[しかし、たとえどれだけ闘志があろうとも力無くしては何も意味がない]


 それでも、目の前に見える憎しみの対象を引き裂きたいという気持ちしかなかった


[[力のない意思は踏み潰されるだけだ!]]


 少しずつ赤い視界が黒く変わりだすなか、一歩とサブリナの耳に化け物達の声が響いた。エコーのかかり低い声や高い声、男なのか女なのかさえもわからない声が反響しながら2人の脳を揺さぶり、声が響くたびに正気を奪っていった。


「力……」

「力か……」

「あの時、俺は……」

「このまま倒されて……」


 その響く言葉に、2人は赤黒い視界で血塗れの顔を上げた。化け物達の言葉は2人の腹の底に怒りの油を注ぎ入れ、消えかけた意識の炎を再び青く燃え上がらせた。


「力だ、アイツをぶっ飛ばした力だ。」

「あの糞爺を吹き飛ばせるのは、あいつの力だけ」

「あの時とアイツを吹き飛ばした、アヴェンジャーが……マーベリックが……!」

「糞親父の力が……あの……龍の力が……」


 意識を体の底から無理矢理に引き上げさせた一歩とサブリナの記憶は、嘗ての記憶を呼び覚ました。

 その瞬間、サブリナの耳に猛烈な轟音が響くと彼女の頭上を鉄塊が飛び去った。異様に横長く広い翼は冷たい大気を切り裂き、あらゆる敵を焼き払うために山のような火薬をその翼に抱きかかえている。主翼後方胴体上面で唸りを上げるジェットはその巨体を天空へ引き上げると、父親の影に降り注ぐ弾薬の雨は彼女ごと何もかもを焼き払った。

 その炎を勢いよく吸い込む一歩は胸いっぱいに溜まったそれを一気に化け物へと吐き出した。その炎はもう火の熱量を大きく超え、赤や紫、白に黄色等の蛍光色が入り乱れる光の粒子となった。その波は彼の目の前の全てを呑み込み、やがて一歩さえも光に包まれた。


「「ちぃぃぃかぁぁぁらぁぁぁよぉぉおぉおお!」」


 身を焼き焦がす熱と光の中で、一歩とサブリナは焼け溶けながら形を変え、やがて大きな影となり全てと混ざりあう。


「「体と、心が……解けていく……」」


 そして、2人は1つへ変身した。

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