第4話 サンルビーニョの惨壊(4)

「どうしたんだろう。天気はいいのに、まるで嵐が起きてるような……」


 異様な光を放ちながら突如として荒れ出した海の様子をじっと見つめていたマルセロは、自分の背後に立っているエドゥアルドの方を振り向いて彼の異変に気づく。主君に見解を訊ねられたエドゥアルドはそれに答えようともせず、ただ無言のまま不気味な笑みを浮かべていた。


「エドゥー……?」


「殿下は、反逆者レオニダスの伝説をご存じですかな」


 それはマルセロが今までこの老臣から聞いたこともない、底冷えのするような低く恐ろしげな声だった。激しく波を立てながら船を揺らしている海の異常にも動じることなく、嘲笑うかのような視線をこちらに向けながらエドゥアルドは語り出す。


「悠久の昔、神ロギエルに背いた使徒レオニダスは禁じられた果実を取って食べ、恐るべき魔力を我が物としたのです。レオニダスが手に入れたその力は彼の子孫たちにも代々受け継がれ、こうしてゼノクと呼ばれる魔の一族が人類の中に誕生した……」


「何を言ってるんだ。エドゥー」


 かつて禁断の果実を食べて楽園を滅ぼしたというレオニダスの反逆。ロギエル教の神話の物語は幼い頃から繰り返し読み聞かされてきたマルセロも、その裏に隠された魔の伝説については誰からも教わったことがない。教会によって闇に葬られたはずのその忌むべき真実を語るエドゥアルドの体が妖しげな赤い光に包まれ、まるで炎が燃えているかのように輝き出した。


「なっ……エドゥー!?」


「レオニダスの末裔は今や世界中に殖え広がっており、ゼノクの力を持つ者は各地に数多くおります。そして私、エドゥアルド・プジョールもその一人」


 燃え上がる光がエドゥアルドの体に纏わりつき、それが次第に凝固して、甲殻類の姿を模した厚い全身装甲を生成してゆく。驚いて呆然とするマルセロの目の前で、エドゥアルドはくすんだ赤色の硬い鎧に身を覆われ、貝殻のような大きな防具を背負ったヤドカリを思わせる怪人へと変貌したのである。


「エドゥー……お前……!」


「これまでお世話になりました。殿下。貴方は実に慈悲深くしかも面白い御方で、このようにするのは誠に惜しいのですが……」


 巨大な鋏の形となっている右手をゆっくりと掲げて、ヤドカリの魔人・パグールスゼノクと化したエドゥアルドは言った。


「貴方には消えていただかねばなりませぬ」


 唖然として身動きもできず立ち尽くしているマルセロに、パグールスゼノクは武器である右手の鋏を振り下ろす。船の甲板の上に、真っ赤な鮮血が飛び散って木目の板を汚した。




「あーあ、それにしても悔しいな」


 サンルビーニョの港を離れてゆく船の後ろ姿を埠頭に立って見送りながら、若い――と言うよりまだ子供の面影が色濃く残っている女騎士ミランダ・カルヴァーリョはつまらなそうに口を尖らせて不平を言った。


「せっかくマルセロ殿下のお伴として聖地に行けると思ったのに、王都で留守番のお役目をいただいちゃうなんて運がないよね」


 ミランジーニャ(=小さなミランダ)の愛称で呼ばれている弱冠十三歳の彼女は、同じ歳の新米騎士たちの中でも特に小柄で、大人の男たちと並べば余計に背の低さが際立ってしまう。武芸の腕前は確かで、長年訓練してきた歴戦の大男を相手にしても決して引けを取らないほどだが、周囲が愛着を込めて呼んでいるつもりのミランジーニャという渾名はどうしても身長や年齢を小馬鹿にされているように思えてしまい、本人としては気に入っていなかった。


「他ならぬ国王陛下から直々に護衛のお役目をいただいたというのに、それを運がないなどと申すとは何事だ」


 隣に立っていた背の高い青年が、妹の発言を聞き咎めて言った。ミランダの兄で、三歳年上のディオゴ・カルヴァーリョである。


「だって、そうは言ってもさ、兄上」


「気持ちは分かるが、昔からお前は言動が率直すぎるんだ。それで散々、要らぬ損や苦労をしてきただろうに」


 ディオゴン(=大きなディオゴ)と呼ばれている十六歳のディオゴは、妹とは対照的に成長期を過ぎた大人よりも頭一つ高いほどの長身である。体格もがっちりとした力自慢の騎士だが、巨漢を讃えているというよりは木偶でくの坊とからかわれているような気がして、妹同様この通称はあまり好きではなかった。


「兄上だって聖地の土を踏むのがロギエル教徒たる者の夢だって熱く語ってたくせに、そんなに早く気持ちを切り替えられるのはまさに騎士の鏡って感じだね」


 口の達者な妹に皮肉げにそう言われると、ディオゴも図星を突かれた様子で苦笑する。


「まあ確かにな。俺とて聖地と呼ばれたエスティムの街をこの目で見てみたかったという無念がないなどと言えば、それはもちろん嘘になるさ」


 聖地エスティムがロギエル教徒にとって一生に一度は訪れてみたい憧れの地であることは、いつの時代も変わらない。そして実際、二人はつい先日までその悲願を叶えられるはずだったのである。王子であるマルセロの護衛として巡礼の旅に帯同する予定だったディオゴとミランダの兄妹は三日前、セルヒオ王の突然の命令によってその任から外され、都で王宮の警備につくよう役目を変更されたのであった。


「だがなミランダ。王宮の警備も決してつまらない仕事などではなさそうだぞ。むしろ聖地へ赴くよりも、こちらの方がずっと刺激的で大変かも知れん」


「どういうこと? 兄上」


 ミランダが不思議そうに訊くと、ここだけの話だぞ、と声をひそめてディオゴは言った。


「叔父上から聞いた話だが、実は近頃、国王陛下は暗殺をひどく恐れておられるようでな。ご自分の命を狙う曲者がいるのではないかと強く警戒しておられるご様子なのだ。それで身辺の警備を強化し、我々もそちらに回るよう差配されたというわけだ」


 二人の叔父とは、王の重臣でマルセロの教育係でもあったハモンのことである。だがディオゴが見る限り、現在のジョレンティアの政情は内外共に盤石で、国王の暗殺などという大事件が起きる予兆はどこにもなさそうに思える。セルヒオの心を苛んでいる不安の原因が何なのか、王の傍近くにいることの多いハモンでさえも測りかねているのが現状であった。


「でもさ兄上、それにしてもマルセロ殿下は――」


 ミランダが更に何かを言おうとしたその時、突如として異変が起こった。荒れていた海の中で何か強い光が焚かれ、湾内の水面が紫色に発光したのである。


「な、何だ!?」


 太陽さえ霞ませるほどの眩しい光に、ディオゴとミランダは思わず自分の目を手で覆った。やがて太い水柱が空高く立ち昇り、それが爆発的に吹き飛んで、中から巨大な生物らしきものが姿を現す。


「ば、化け物だ!」


 常に冷静沈着で肝の据わったディオゴさえ、思わず声を上ずらせてそう叫んだ。全身を淀んだ紺色の鱗に覆われ、背中に二列の大きな背鰭せびれを持ち、両肩には太い湾曲した角か牙のような突起を生やした巨大な竜が水面から上半身を出し、くちばしのように長く前へ伸びた口を大きく開いて、サンルビーニョの街の全域に響き渡る大音量の咆哮を轟かせたのだ。


「ド、ドラゴンだ!」


「あれは、もしかしてウォルギロスか……!?」


 獰猛な海の王者・水竜ウォルギロス。身震いして体にまとわりつく水滴を弾き飛ばしたその巨大なドラゴンはマルセロを乗せた船をぎろりと睨み、威嚇するように咆えながら牙を剥いた。


「まずい。あの竜、船を狙っているぞ!」


「大変だよ兄上! マルセロ殿下が危ない!」


 慄いて声を上げるディオゴとミランダだったが、遠く離れた陸の上にいる二人にはどうすることもできない。出現したウォルギロスはマルセロが乗った船に狙いを定め、海水を漕ぎながら前進を始めた。


「殿下!」


「マルセロ殿下ぁっ!」


 二人が成す術もなく見つめる中、ウォルギロスは船の側面に勢いよく巨体をぶつけ、大重量で船体を押し潰して破壊した。船を覆う木製の外板がまるで硝子ガラスのようにバラバラに砕け、露出した無数のはりが怪物の体重に圧迫されてへし折られる。


「何たることだ。マルセロ殿下が……」


「そんな……殿下!」


 埠頭にいるディオゴやミランダ、その他大勢の騎士や貴族らが愕然とする中、怪物は口から噴射した高熱の火炎で沈みゆく船の残骸を焼き払った。


「まずい。こっちに来るぞ!」


 慄いたディオゴが周囲に警告を発するように大声で叫ぶ。立ち昇る炎と黒煙の向こうで、再び大きく咆えたウォルギロスは彼らがいる陸地の方へその凶暴な視線を向け、唸りを上げて進撃を開始したのである。

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