第7話 色あせる正義
どれぐらい時間が経ったのだろうか。無意味に眺めていたパソコンの画面はとっくにブラックアウトしている。
外は陽がくれたのかと勘違いしてしまいそうなほど暗くなっていて、遠くで雷鳴が聞こえる。
脇に置いたスマホが明るくなり、SNSの通知を告げる。【あなたの書き込みにいいいねが付きました】
通知をタップすると違法広告バスターのページに飛んだ。
中井が泣きながら、いい会社なんだと訴えたジュレ製薬株式会社の広告の画像。
『違法広告のお手本! どれだけの人が騙されちゃうんだろう?』と書き込んだ記事に、3つ目のいいねが付いたらしい。
なんだか昨日まで見えていた世界とまるで違う世界のようだ。
決して間違ってなどいないと信じていた僕の正義は色あせ、つたなくて醜い自分の影がちらつく。
反論も、賞賛もない掃きだめのような呟きの数々。
これが僕の正義か?
誰かを傷つけてまで押し付けるほどの物なのか?
憑き物が取れたかのように思考がクリアになり、今まで見えていなかった物が見える。
誰かが誰かのために作った、ちょっと不格好なお弁当。
晴れた日の飛行機雲。夕立ちの後の虹。生まれたての小さな手。有名店のバースデーケーキには、おめでとうの文字が躍っている。
それらは、誰かの平凡な一日を彩った瞬間。
たくさんの【いいね】と、コメントに囲まれた画像たちに頬がゆるんだ。
またスマホがメッセージを受信した。今度はLINEメッセージだ。
スクリーンには、【和田優香さんから画像が届きました】の文字。
開いてみると、今朝、一緒に食べた野菜サンドと、凝ったデザインの小ぶりなコーヒーカップ。その背後にはサイフォンを操作するマスターの手。
自家製のマヨネーズと鮮度のいい野菜の食感。鼻の奥を突いたマスタードの刺激。上質なコーヒーの香りが鮮明に蘇る。
僕にもあった! クソみたいな一日を彩った瞬間が。
“今日はごちそう様でした。誘っていただいて嬉しかったです。次は僕からお誘いします”
そう返信して画面を閉じた。
続けて電話のマークをタップ。
発信履歴をさかのぼり、ジュレ製薬のコールセンターに電話をかけた。
1回目のコールが終わらないうちに通話は繋がり、甘く澄んだ声が鼓膜をくすぐった。
『お電話、ありがとうございます。こちらジュレ製薬サポートセンター、中井がうかたまわります』
中井だ! ちょっと間違えてるが、前回よりはスムーズに対応できている事に熱い物が込み上げる。
第一声が大切。絶対に突っかからないようにと、何度も練習したのは昨夜の事だ。
「小池です。小池啓介……と、申します」
『……小池……さん?』
「そう、僕です」
『ご用件は、なんでしょうか?』
冷たく言い放たれ、なぜだか胸がぎゅーっと苦しくなった。
「あのっ、中井さんと会ってお話がしたいのですが?」
『へ? ナンパ?』
「はい、あ、いや。ナンパではないですが」
『ナンパじゃなかったら何ですか?』
少し笑ってる?
「昨夜の件を謝りたいな、と」
『へ? どうして?』
「なんていうかその、傷つけるつもりはなくて。それに……」
『それに?』
「君の事をもっと知りたいな、と」
『やっぱりナンパじゃーん』
「いや、違うし。なんというか、僕の事も知ってほしいな、とか」
『んふっ』
「んふってなんですか? んふって」
『かっこワラワラです』
「あーそうですか。おちょくってるんですか」
『草』
「おい! 一応客だぞ」
『お金を払わないお客さま。ご用件はなんでしょうか?』
「だからー、会ってお話をさせてください。お願いします」
『クレームならもうたくさんです』
「クレームはもうないです」
『本当?』
「はい、本当。僕はクレーマーじゃありません」
『じゃあ、お会いしてあげます』
「ありがとうございます。仕事が終わったら携帯に連絡ください」
『はい、かしこまりました』
「よくできました」
『んふっ』
「では後ほど」
電話を切った瞬間、無数のバケツを一斉にひっくり返したような雨が降り出した。
うるさいほどに、窓を叩きつける雨粒を見ながら、僕は何故だか笑っていた。
今まで機能していなかった心の一部が動き出したかのように弾んでいる。
この感情に名前を付けるとしたら、きっと……。
僕は違法広告バスターの管理画面にアクセスし、何の
僕は僕の正義を曲げるつもりはない。ただ、引き出しに仕舞うだけだ。必要な時だけ使えばいい。
アカウントは消さなかった。
自分でした事の責任は自分で取る。
訴えられても仕方のない事をしたのだ。逃げるつもりはない。
全て消し終えて空っぽになったスペースに、先ほど和田さんが送ってくれた画像をアップした。
そして、ニックネームを【違法広告バスター】から【コイケ】に変えた。
何もかもを洗いざらい押し流してしまうような雨をスマホのカメラに収め、それもアップした。
この日を決して忘れないように。
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