天壌霊柩 ~超高層のマヨヒガ~ 第4回

 そんな拓也にとって、先のいじめ問題を見過ごしてしまったことは、中学生活における唯一の失点だった。

 偏差値や内申書によって選別される高校とは違い、単に地理的な区分で生徒を寄せ集める市立の小中学校に、様々ないさかいはあって当然だと拓也は思う。その諍いがあればこそ、市立の義務教育現場は、拓也にとって得難い社会学習の場だったのである。小学六年に上がり、担任教師や両親に有名私立中学への受験を勧められた時、あえて近隣の市立中学を選んだのも拓也自身である。高校受験一辺倒のエリート中学では、拓也が最も必要としている市井レベルの世間知を蓄積しにくい。受験技術だけなら、学習塾でも高校でも学べる。

 しかし――。

 あの加害者三人の品性が、そこまで腐っていると悟れなかったのは、自分の未熟に他ならなかった。確かに悪ぶってはいたが、万引きや恐喝で補導される他のクラスの不良よりは、まだ小者だろうと看過してしまった。

 被害者への気遣いも、今にして思えば、まだまだ足りなかったと思う。

 佐伯沙耶さや――その無口で影の薄い女子生徒を、けして拓也が軽んじていたわけではない。多くの同級生のように頭から無視することはなかったし、むしろ無視されがちな女子だからこそ、しばしば意図的に声をかけた。学級委員長あるいは生徒会長として、それが仕事の一つだったからである。しかし、胸襟を開いた会話の記憶はほとんどない。佐伯沙耶もタワーシティ再開発以前は同じ古い町の子供だったから、その頃の思い出話など、心を開く手段はまだいくらでもあった。あんな事態を迎える前に、一言でも拓也に相談してくれたら、確実に解決できたはずなのだ。

 理屈が通らない不良たちを、牽制と威嚇だけで抑える自信が拓也にはある。事実、中体連の空手道県大会で、個人戦4位の実績を残している。それも部長や副部長の顔を立てるため、意図的に表彰台を避けた結果である。

 ちなみに中学の部活空手は、寸止めが原則のいわゆるスポーツ空手だが、拓也はOBの極真空手有段者から、フルコンタクトの実技も一通り伝授されている。私情による暴力は御法度にせよ、人体のどこをどう責めれば相手が動けなくなるか、体で知っている。どこをどう責めれば絶命するかも、頭では知っている。

 しかし――。

 今となっては、とりあえず事態の進展を静観するしかない。


     *


 ビル最前面の回転ドアを抜けると、別世界のような冷気が拓也を包んだ。

 外の猛暑に対抗するため、入口のエアカーテンも最高出力である。

 なかば熱暴走に陥りかけていた脳細胞が瞬時に冷めてゆくのを、拓也は物理的に感覚した。

 文字どおりのクールダウンだった。

〈――そう、梅雨のさなかに始まった全国的な大炎上を思えば、また呼び出されるのは理の当然だ。夏期講習のテキストなど、受け取った日の内にざっと目を通し、さほど難物ではないのを見極めている。一日くらい休んだところで、遅れをとるはずがない――〉

 肉体的な快不快によって、あっさり反転してしまう精神というものの愚直さを、拓也は改めて経験則に刻んだ。直前まで捕らわれていた違和感や倦怠感は、やはり『感情』ではなく、単なる肉体的苦痛の反映だったのである。

 そもそも人間の感情とは、知性のバグにすぎないのではないか、と拓也は思う。無ければ無いで一向にかまわない。

〈――そこが炎熱の砂漠だろうと酷寒の極地だろうと、知性さえ保っていれば合理的に対処できる。肉体が生存限界に達し、どうしても死ぬのが合理的な状況なら、合理的に死ぬだけのことだ。まだ十数年しか生きていない自分が、充分な知性や合理性を備えていないのも承知の上だ。常に現時点でのフルレンジを自分自身に課していればいい――〉

 拓也は確かな歩調を取り戻し、エントランスホールの自動ドアに向かった。

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