第14話 陣内は、学部長に娘を押しつけられていた!

 真里菜の転落死事件から10日後。

 前夜美咲と密会した陣内は、3時限の講義を終え、法学部の研究棟9号館に戻ってエレベーターを待っていると、事務室から法学部の副手ふくしゅをしている若い女性が出てきて、「陣内先生!」と呼びとめられた。

吉野よしの先生がお呼びです。すぐにきてほしいそうです」

「そう。それで、先生は今、どちらに?」

「学部長室にいらっしゃるそうです」

「わかった。研究室に荷物を置いたら、すぐにいくと、お伝えしてくれ!」


 1機しかないエレベーターがちょうど1階に降りてきたので、陣内は乗りこんだ。陣内の研究室は4階。法学部長の吉野三郎さぶろうの研究室も、同じ階の陣内の斜め向かいにあるが、今は、学部長としての仕事をしているのか、事務室隣の学部長室にいるようだ。

 吉野の用件は、陣内には予想がついた。そろそろ返事がほしいとの催促に違いない。

(困ったなあ、どうしようか? とり敢えず承諾するほかはないのかな……? でも、美咲のこともあるし……。まあ、いいや、そのときは、そのときだ)

 ようやく陣内の考えがまとまったが、なぜか、吉野にめられたような気がしたのも、事実だった。



 3ヵ月前、2年振りに娘がヨーロッパから帰ってくるので、一緒に食事をしないかと、陣内は吉野の自宅に招かれた。

 吉野の娘圭子けいこは、3歳からピアノを始め、音大附属の小、中、高から大学へとエスカレーター式に進学し、大学卒業後は、ピアニストを目指して有名演奏家について修行していた。

 その恩師の勧めで、2年前からパリに留学していたが、結局目が出ず、やっと夢を諦めて帰ってきた。吉野にとって圭子は、目に中に入れても痛くないひとり娘。圭子の夢を叶えてやろうと、できる限りの援助をし、すでに都心に家が一軒買えるほどの金をぎこんでいた。

 しかし、金をかけたからといって、誰もがピアニストになれるわけではない。ピアニストとしてひとり立ちできるのは、ほんのひと握り。努力次第でどうにかなるものでなく、才能がものをいう世界だった。


 娘に才能がないことを薄々気づいていたが、なによりも資金が続かなくなり、1年前から諦めて帰ってくるようにいい聞かせていた。だが、自分の才能に見きりをつけたくない圭子は、なかなかうんとはいわない。

 1年がかりで説得し、圭子は渋々帰ってきたが、いつまたピアノをやりたいといい出しかねない。吉野は、圭子を結婚させることにした。その相手に白羽しらはの矢が立ったのが陣内。年齢的にも、陣内は圭子の3歳上で、ちょうどいい相手。

 この日、陣内が吉野宅に招かれたのは、圭子に引きあわされるためだった。


 世田谷区松原、京王線下高井戸駅近くの閑静な住宅街に、吉野は居を構えている。

 吉野宅は、大邸宅とまではいえないが、一般に売られている建売住宅の数倍の広さで、ほどほどに洒落しゃれた洋風の建物。

 玄関のチャイムを鳴らすと、吉野自らが出迎えてくれた。

 20畳の広さのリビングに案内され、高級そうな革ばりのソファーを勧められた。南に面した陽あたりのいい部屋で、全面ガラスばりの窓から、手入れのいき届いた庭が見える。

 リビングの奥には、白いグランドピアノがえつけられている。おそらく圭子の練習用のピアノだろう。


「悪いね。せっかくの日曜に、わざわざきてもらって」ソファーに座るなり、吉野がすまなさそうにいった。

「いえ、今日は、特になにも用がなかったものですから……」陣内は如才じょさいなく答えた。

 吉野は、大学院時代の指導教授。しかも陣内が所属する法学部の学部長を務めており、吉野の誘いを陣内が断れるはずがない。大学内の噂では、次期学長候補の最有力だともいわれている。

「それにしても立派なお宅ですね。お庭も素晴らしい!」陣内が心にもないお世辞をいった。

「いや、たいしたことないよ。ワイフの趣味がガーデニングでね。庭に1年中花を咲かせたいらしいよ。私にはできないし、したくもないがね」

 庭の中央に設置された薔薇のアーチに目をやりながら、吉野がいった。


 そのとき、ドアがノックされる音とともに、ワインとグラスを載せたトレイをもって、吉野の妻美子よしこが入ってきた。

「いらっしゃい、陣内さん」

「はじめまして、陣内です。吉野先生には、学生のときからお世話になりっぱなしで、ご迷惑をおかけしてます」

 陣内は、立ちあがり、慇懃いんぎんに挨拶をした。

「とんでもありません。とても優秀な方だと伺っていますよ」美子は笑顔を返した。

「このワイン、娘がフランス土産みやげに持ち帰ったものだよ。けっこういけるんだ」

 吉野は、コルク抜きを使ってワインのせんを抜いた。


「ところで、圭子はどうした?」

「今きますよ。簡単なおつまみをつくってますから……」

 美子が答えると、またもドアがノックされ、オードブルを持った圭子が現れた。

「陣内君、娘の圭子だ。よろしく頼むよ」吉野が陣内に紹介した。

「陣内です。いつもお父様に大変お世話になっています」陣内は立ちあがり、一礼をした。

「圭子です。今日は、父に無理やりこさせられたのでしょう。権力者には、逆らえませんものね」

 いきなり核心を突いたひと言に、陣内はたじたじになった。

「いえ、そんな……」

「横暴なのは、家も大学も一緒なのね。自分の意のままにならないと、気が済まない人ですから……」単刀直入たんとうちょくにゅうに自分の父親の欠点を指摘した。

 そのとおりです、ともいえず、陣内は戸惑うばかりだった。


「なに、馬鹿なことをいってる。初対面の人に、親の批判をしてどうする。困った娘だ!」

 娘に批判されているにもかかわらず、吉野は笑顔を浮かべていた。

「どうも甘やかして育てたせいか、ストレートにものをいいすぎる子でね。ほとほと困ってるんだ……」

「いいえ、外国での生活が身についていらっしゃるんですよ」とフォローした陣内は、圭子に尋ねた。

「パリには、何年いらっしゃったんですか?」

「2年だけです。もう少しいたかったのですが、父に無理やり引き戻されましたから……」素っ気なく答えた。


 陣内は、先ほどからの父親に対する痛烈な批判の要因がわかった気がした。

 それを察した吉野が娘を促した。

「圭子、陣内君に、お前のピアノを聴かせてあげたらどうだ?」

「そうね。プロとしては、通用しない腕前だけど、忙しい中、せっかくいらっしゃってくれたのですから、お聴かせすることにするわ」

 圭子は、おもむろにグランドピアノに近づき、椅子に腰をかけ、ピアノの蓋を開けた。


「陣内さん、お好きな曲、ありまして?」

「いえ、音楽とは、無縁の人間ですから」

 圭子は言葉を返さず、ピアノをき始めた。

 ショパンの『別れの曲』だった。『別れの曲』とは、フランスで製作されたショパンの伝記映画の邦題。BGMとしてこの曲が使われたことで、日本での曲名になった。ショパン自身が名づけた題名ではない。

 正式名は、『12の練習曲(作品10)の第3番ホ長調』。その名の通り練習曲であるが、美しい旋律せんりつを誇るこの曲は、作曲したショパン自身が、「かつてこれ以上の綺麗な旋律をつくったことはない」といったほど。透明感のあるホ長調の綺麗な旋律は、筆舌ひつぜつに尽くしがたい。

 ピアノ曲としては定番中の定番。ピアノの弾く人なら誰もが憧れる曲であるが、弾きこなすのが難しい曲でもあった。敢えてその曲を選び、圭子が弾いたのだった。


 美しい旋律に、陣内は聴きれてしまった。

 どこかで聞いたことのある曲だと思ったが、クラシック音楽のCDを1枚も買ったことがない陣内には、誰の曲なのか、なんという曲名なのかも、皆目見当がつかない。

「どうでした?」弾き終わった圭子は、陣内に感想を尋ねた。

「とても素晴らしい! プロの演奏は違うと、感心しました」

「陣内さんは、お世辞もお上手なのね」

「いえ、本当にそう思ったから、いったまでですよ」

「ありがとうございます。素直に喜ぶことにします。

 この曲は、ショパンの『別れの曲』といって、練習曲なんです。ショパンを弾きこなしてこそ、一流のピアニストといわれていますから。私はこれまで何百回も、いや何千回もこの曲を弾いているんですよ。でも、これからはもう弾くこともなくなりますが……」


 そのあとも、圭子はショパンの曲を弾き続けた。

 圭子のピアノが、BGMとして違和感なく受け入れられた頃、「食事の用意ができましたよ」と、美子の声がかかった。一同は、ダイニングに移って食卓を囲んだ。

 イタリアンを中心とした美子の手料理が振る舞われ、楽しい時間をすごした。すっかりご馳走ちそうになった陣内は、いわゆる上流階級の暮らしを肌で感じ、このような暮らしも悪くないと思い始めていた。


 食事のあと、予想どおり吉野は、陣内を書斎に招き入れた。

 2階の8畳の洋間が、吉野の書斎。壁という壁は、特製の書棚をしつらえ、和洋を問わず、法律書がぎっしり埋まっていた。窓際に大きな机がえられ、その前にひとり用のソファーが2脚、小さなテーブルを挟んで置かれていた。

 ソファーに腰をかけた吉野が、陣内に向かいのソファーを勧めた。

「どうかね、うちの娘とつきあう気はないかね?」

 唐突に吉野がきり出した。どうやら圭子は、陣内のことを気に入ったようだ。

「あのとおりねっ返りだが、意外に気立てがよく、優しい娘でね」

「お嬢さんとですか……?」

 予想していた吉野の申し出であったが、陣内は、わざと戸惑った素振りを見せた。


「何度かデートしてくれるだけでいいよ。それで気に入ったら、将来は、結婚ということを考えてくれればいい。とり敢えず娘とつきあってくれないか?」懇願するように吉野が迫った。

「わかりました。お嬢さんとおつきあいさせていただきます」

 陣内は、承諾するほかはなかった。

 大学内で揺るぎない地位を築き、次期学長候補の最有力だともいわれている吉野に逆らうことなど、陣内にできるはずはない。もちろん吉野と親密になれば、陣内が教授に昇進するのにも有利であることは、確かである。



 圭子とつきあうことを承諾した以上、なにもせず、ほうっておくわけにはいかない。

 吉野宅を訪問した数日後、陣内は、吉野の自宅に電話をかけ、圭子にデートを申しこんだ。

 待ってましたとばかりに圭子は、クラッシクコンサートのチケットがあるから一緒にいかないかと、逆に誘ってきた。

 陣内に異論などあるはずはなく、次の日曜日、サントリーホールで開催されるクラッシクコンサートに出かけた。コンサートのあと、圭子のいきつけのイタリアンレストランが近くにあるというので、一緒に食事をすることになった。

 その場で、互いの携帯電話の番号を教えあい、以後は、電話か、メールで連絡をとることになった。


 コンサートの2週間後、今度は、ミュージカルのチケットが手に入ったから、一緒にいかないかという誘いのメールが、陣内のスマートフォンに。

 ミュージカルは金曜日の夕刻。学内の会議があったが、圭子の誘いを断るわけにもいかず、無理をしてミュージカルにいくことにした。ミュージカルのあとは、お決まりの食事で、今度はフレンチレストランだった。

 いつもの陣内であれば、食事のあと、必ずホテルに誘うのだが、圭子と肉体関係ができてしまえば、結婚を承諾したのと同じことになってしまう。さすがの女たらしの陣内でも、自重するほかはなかった。


 三度目は、それから3週間後、今度は、映画を観ることになった。

 圭子から誘われたのは、その前の週末であったが、陣内は、学会に出席するため九州に出張しなければならず、さすがに学会をすっぽかすわけにもいかず、このときは丁重に断った。

 しかし、1週間先延ばしになっただけだった。食事は、テレビで有名な中華の高級レストラン。金持ちの娘だけあって圭子は、グルメで美味しいものをよく知っていた。



 実は、陣内が学部長室に呼びつけられるのは、これが二度目。ひと月前、圭子と三度目のデートをした翌週、陣内は、吉野に呼びつけられていた。

 そのときは、「娘を気に入ってくれたかね?」と問いかけられただけで、陣内も「はい」とだけ、答えておいたが、吉野の表情は、それ以上のことを期待しているように見えた。

 口にこそ、『結婚』という言葉を出さなかったが、暗に「娘と結婚する気はないかね?」と、尋ねられているような気がした。

 それを察して陣内は、「もうしばらく、お嬢さんとおつきあいさせてください」と返事し、暗に「結婚の話は、しばらく考えさせてください」と答えたつもりでいた。


「失礼します」と声をかけ、陣内が学部長室に入ると、机で書類に目を通していた吉野が、陣内の顔を見るなり、機嫌よく微笑んだ。

「もう少しで終わるから、そこにかけて、待っていてくれないか?」応接用のソファーを指さした。

 数分後にノックの音がして、秘書がお茶をもってきたのと同時に、吉野が席を立ち、陣内の前に腰を降ろした。秘書が、緑茶の入った湯飲み茶碗をふたつテーブルに置き、部屋を出ていくのを待って、吉野がきり出した。


「忙しいのに、わざわざきてもらって悪いね。実は、娘の圭子が、君のことをとても気に入ったようなんだよ」満面の笑みを浮かべながらいった。

「そうですか……」陣内は、少しとぼけて見せた。

「君の方は、どうなんだね?」吉野は、無意識に身体を前に乗り出した。

「とても活発で、それでいて、気立てのいいお嬢さんだと思ってます」

「そうかね、そうかね」


「どうだろう、娘をもらってやってくれないか?」これまでとは違い、吉野は、ストレートに陣内に迫ってきた。

 少し間をおき、陣内が微笑んだ。

「はい、私の方から、お嬢さんとの結婚を先生にお願いしようと思っていたところです。少し時間をいただいたのは、郷里の母とも、相談しなければなりませんから……」

「そうか、そうか。それで、お母さんは、なんと?」相好そうこうを崩して吉野が尋ねた。

「こんな良縁はないと、喜んでおりました」と陣内は答えたが、実際は、母親にはひと言も相談していなかった。

「圭子も喜ぶよ。ありがとう。これで、君も私の身内だ。これからも、よろしく頼むよ!」吉野は立ちあがり、握手を求めてきた。

「こちらこそ、よろしくお願いします」陣内も立ちあがり、両手で吉野の掌を受けとめた。


 そのあと、吉野の上機嫌に拍車はくしゃがかかり、30分もとりとめのない話を続けた。

 機嫌を損なわないタイミングを見計らい、陣内は「それでは、これで失礼させていただきます」といって、退去しようとしたとき、吉野が背後から呼びとめた。

「陣内君! 娘と結婚するにあたっては、君もいろんな浮いた噂があるようだから、その辺は、きれいにしておいてくれないと困るよ。これは、圭子の父親としてでなく、君の指導教授としての立場からの忠告だと、思ってほしい」

(あんたに、いわれたくない!)と思いつつも、「はい、わかりました」と素直に陣内は答えた。



 陣内が学部長室を退室した1時間後、翌日の2時限に行われる法科大学院の刑事法演習のレジュメを見てもらうため、有村美咲が吉野を訪ねてきた。

 美咲は、プリントアウトしたレジュメを吉野が目を通すのを待っていたが、吉野の機嫌があまりにもいいので、思わずそのわけを尋ねてみた。


「先生、どうされたのですか? とてもご機嫌がよろしいですね?」

「そうかね。有村君からも、そう見えるかね。実は、娘の結婚が、やっと決まってね」

「パリに留学されてたお嬢さんですね。そうですか、それは、おめでとうございます」

「ありがとう。まだピアニストの夢は、捨てきれないみたいなんだけど、ようやく結婚する気になってくれたんだ。説得するのに苦労したけどね」

「それはよかったですね。先生も、これでご安心ですね」

「やっと肩の荷を下せるよ、これで。実は、うちの陣内君がもらってくれることになってね。さっきその返事を聞いたばかりなんだ」


 吉野の口から陣内の名前が出たとき、美咲は、瞬間冷凍されたように凍りついた。ショックで気が遠くなり、目の前が真っ暗になり、声が出なくなった。

 吉野がレジュメに目を通している間、どうにか気をとり直した美咲は、吉野に悟られないよう表情を変えずにレジュメを受けとり、「明日の授業、よろしくお願いします」といって、学部長室から退出するのが、精一杯だった。

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