第13話 美咲は、密かに陣内とつきあっていた!

 真里菜の転落死事件から9日後の夜。

 有村美咲は、新宿にあるシティホテルの一室で、陣内雅彦とベッドをともにしていた。

「今日は、泊まっていくでしょう?」情事を終え、シャワーを浴びて部屋に戻ってきた美咲が、陣内に尋ねた。

「いや、明日まで、書きかけの論文を仕あげなきゃいけないんだ。あともう少し。これから帰って、仕あげるつもりなんだ」ソファに腰をかけ、ビールを飲んでいた陣内が答えた。

「そうなの。今日は、ゆっくりできると思ったのに……。もう少し一緒にいてくれても、いいのにね」

「仕方がないだろう。研究者にとって、論文は命にも等しいものなんだから……」

「そうね。わがままいって、ごめんなさい」

「また、近いうちに会えるよ」


 陣内は立ちあがり、クローゼットにかけてあるスーツとワイシャツをとり出し、身につけた。ネクタイを締めながら陣内が、美咲に尋ねた。

「君は、どうする?」

「あなたがいないのなら、しばらくしたら、私も帰るわ」

「じゃあ、僕は、これで帰るよ。支払いを済ませておくから……」

 陣内は、トレードマークのルイヴィトンのビジネスバッグを持って、部屋から出ていった。



 美咲は、3年前のことを思い出していた。

 美咲がまだ学部の3年生の頃、陣内ゼミのコンパで、陣内と同じテーブルに座ったのが、きっかけだった。会話が弾み、楽しいひとときをすごした。

 帰りぎわ陣内が、周囲に悟られないよう美咲を誘ってきた。トイレにいったときに書いたのか、新宿にあるホテルのスカイラウンジバーの名前と電話番号が書かれたメモを渡された。「皆と別れたあと、こっそりここにきてほしい」と、ささやきながら。

 美咲は迷った。ゼミの指導教員である陣内の誘いを簡単に断ることもできず、かといって、ふたりだけでバーで飲むことにも躊躇ためらいいがあった。

 断るにしても、直接会っていった方がいいと思い、とり敢えずホテルのバーまで出向くことにした。


 高層ホテルの32階にあるそのバーは、もちろん美咲がはじめて入る店だった。どうしていいのかわからず、入口にいたウェイターに陣内の名前を告げると、窓際のカウンター席に案内された。

 すでに陣内は、席に座って酒を飲んでいた。人の気配に気づいたのか、陣内が振り返った。

「やあ、こっちだよ。ここに座って」隣の椅子を引いて美咲に勧めた。

「なにがいい?」

「お酒は、あまり飲めませんので、軽いものにしてください」

「このお嬢さんに、軽めのカクテルを」陣内はカウンターの中にいるバーテンダーにオーダーした。


「ここからの夜景は、最高だよ!」という陣内のひと言で、美咲は、このバーが『スカイラウンジ』という名がついていることを思い出した。

 南側に面しているカウンター席から眺める夜景は、想像を絶する眺望。ライトアップされた東京タワー、無数の灯りを壁面に輝かせた高層ビル群、遠く東京湾に停泊する船舶の灯まで一望できる。美咲は、東京の夜景がこれほど綺麗なものだと知らなかった。

「凄いですね、この眺め。はじめて東京の夜景を見ました」


「君は、どこの出身なの?」

「群馬です。群馬の前橋です」

「群馬かぁ。群馬だと、達磨だるま弁当ぐらいしか、知らないよ」突然、陣内の口から『達磨弁当』という言葉が出たので、美咲は唖然あぜんとなった。

「達磨弁当、ですか?」

「そう、達磨弁当。いつか仙台に出張したとき、新幹線の中で食べたことあるんだ。真っ赤な達磨の形をした弁当箱に入ってた。学会に出るため、慌てて新幹線に飛び乗ったら、昼飯を食べてないのを思い出してね。ちょうど車内販売が通りかかったので、真っ赤な色に釣られて、つい買ってしまったんだ」


「どうでした?」

「なにを食べたか、全然覚えてない。達磨の形しか」

「そうですか。地元じゃ、けっこう評判ですよ」

 相手が大学の講師なので、美咲も構えていたが、それが、弁当の話で盛りあがったのをきっかけに、気がほぐれ、親しみを覚えるようになった。

 このあとも陣内は、仙台出張にまつわるエピソードをいくつか披露してくれた。スコッチをロックで飲みながら。


 1時間あまりが経ち、11時をすぎた頃。

「そろそろ私は……」といいかけたとき、陣内が、急に話題を転換させた。

「ところで、君も法曹志望かね? 僕のゼミは、法曹志望の者が多いんだ」

「はい。父が弁護士をしているものですから……」

「そうすると、法科大学院に進学するのかね?」

「そのつもりです。早く弁護士になりたいので、既修コースに進むつもりです」

「準備は、進んでるのかね? けっこう難しいよ、法科大学院も」

「とり敢えず適性試験の準備をしてます」


「じゃあ、これから、ゆっくりと受験勉強の話をしようじゃないか? 場所を改めて」

「いいえ、もう今日は遅いですから、これで失礼します」

「まだいいじゃないか。明日は大学も休みだ。下に部屋をとるから、つきあってくれないか?」

「部屋で、ですか?」下心が見え見えの露骨な誘いに、一瞬美咲はムカッとなったが、それとは別に、胸の鼓動が速まるのを感じた。細身でスタイルがよく、身につけるものは一流ブランド品ばかり。陣内は、誰もがあこがれる理想の教師だった。そして、童顔であどけなさの残る甘いマスクは、見た目にとても若く見える。


「先生と、ふたりきりですか?」美咲は陣内に確認した。

「そう、君とふたりきりで話をしたい。無理にとは、いわないが……」

 美咲は、そのあとのことはあまりよく覚えていない。部屋に入るなり、「君のことが好きだ!」といって、陣内に抱きつかれた以外は。

 高校時代、つきあっていた同級生とキスをしたことがあったが、陣内に抱かれるまで経験はなかった。美咲は、陣内のなすがままに従った。服を脱がされ、下着をぎとられ、キスをされ、身体からだ中を愛撫された。最後に脚を開かされ、陣内自身が挿入してくるのを受け入れた。快感とはほど遠い、痛みだけの初体験だった。


 ことが済み、シーツに出血のあとを見つけた陣内が、「はじめてだったんだ。ごめんね。そうとは知らずに」といったことは、今でも美咲は、はっきり覚えている。

(だからなんなんだよ! 人の身体をもてあそんでおいて)と、非難したかったが、その想いとは裏腹うらはらに、「先生、結婚してくれますよね!」といったのだった。

 その返事は、至って簡単明瞭。陣内は、「いいよ!」とだけいった。

 それ以降、美咲は、『結婚』という言葉を敢えて陣内にいわないようにしていた。いわなくても、陣内は約束を果たしてくれる。そう信じているのだった。


 処女を陣内に奪われて以来、月に一度のペースでデートをするようになった。

 映画や演劇を観たあと、レストランで食事をして、ホテルの一室でベッドをともにし、夜を明かすという、若い年頃の男女がする普通のデート。ただ教師と学生という立場から、周囲に知られないよう大学のある池袋を避け、新宿や渋谷でのデートを繰り返した。おそらく城北大学の関係者は誰も、美咲と陣内がつきあっていることを知らないだろう。


 あれから3年、今では、映画や演劇を観ることもなく、レストランで食事することもなくなった。美咲が、司法試験の勉強で忙しいこともあったが、ふたりの関係が、徐々に変わってきたのも確かだった。直接ホテルの一室で落ちあうか、大山にある美咲のマンションに陣内が訪ねてくることが多くなった。

 会うと必ずセックスをする。いや、セックスをするために会っているのかもしれない。ここしばらくは、ゆっくり会話することもなくなっていた。



 ひとりでホテルを出ると、美咲は、無性に酒が飲みたくなった。

 あのスカイラウンジバーにいってみよう。はじめて陣内と一緒に飲んで以来、ときどき陣内に連れていってもらうバーだ。カウンターから眺める夜景が、とても気に入っていた。

(あそこなら、女がひとりで飲んでいても、違和感はない。そうしよう!)新宿駅に向かって歩き出していたのを引き返し、高層ホテルに向かった。

 店に入ると、「いらっしゃいませ」といって出迎えたウェイターが、「おひとり様ですか?」と確認した。

「ええ。見晴らしのいい席を、お願いしたいわ」

「どうぞ、こちらに」窓際のカウンター席に案内してくれた。


「いらっしゃいませ」

 3年前、カクテルをつくってくれたバーテンダーが出迎えてくれた。おしぼりを出したあと、「なにに、なさいます?」と聞かれたので、美咲は、スクリュードライバーをオーダーした。

 スクリュードライバーは、ウォッカをオレンジジュースで割ったカクテル。甘く飲みやすい割には、アルコール度が強い。少し酔いたい気分だった。

 窓から見える夜景を眺めながら、美咲は、母のことが気になっていた。ホテルを出るとき、スマートフォンを確認すると、母からの着信。そういえば、このひと月、母に電話をかけていない。ここ1年は、実家にも帰っていない。

(どうしているだろうか。母は。電話してみよう)と思ったが、時計を見ると11時前。(まだお店にいる頃だ。今は、やめておこう)



 美咲は、群馬県前橋市の出身。母と娘の母子家庭で育つ。水商売をしていた母が、地元の資産家で弁護士を開業していた父親に見初みそめられ、そのまま関係ができ、美咲を産んだ。もちろん父親には、妻も子どももいる。美咲は、いわゆる妾腹しょうふくの子であった。

 世間体を気にした父親が、母に水商売をやめさせ、郊外のマンションをあてがった。

 美咲が物心ついた頃、なぜ、わが家に父親が一緒にいないのか、不思議に思った。週に一度顔を出し、そのまま泊まっていくこともあれば、すぐに帰ることもあった。

 いったい父親は、どこへ帰っていくのか? 疑問は、美咲の幼心に消えることはなかった。


 自分が妾腹の子であることは、小学3年のときに知った。クラスの男の子に『めかけの子』といじめられたからだ。妾とは、なんのことか? 美咲は知らなかった。なぜ苛められるのかも、わからなかった。

 家に帰って母に問いただすと、母は、父親にはもうひとつ家庭があり、そこには、妻も子どももいることを、正直に話してくれた。それでも、母は父親を愛しているといい、父親からも愛されているので、幸せだともいった。

 このような事情を小学3年の少女が理解できるわけがない。にもかかわらず母は、美咲に隠しごとをせず、なにごとも正直に話してくれた。


 大きくなるにつれ、だんだんと父親のことを許せなくなった。家庭がありながら、なぜほかの女に手を出すのか? おまけに、子どもまで産ませてしまって。

 中学生になった頃、父親とはほとんど口をきかず、目さえあわすことをしなかった。

 高校に入学した頃から、父親に対する想いが、徐々に変化していった。

 父親は、弁護士というより商売人で、商才がけていた。資産家の家に生まれ、その資産を活用させ、商売を成功させた。

 周りの人からうらやまれ、陰で傲慢ごうまんで金銭欲の深い人だとさげすまれていた。弁護士は肩書きで、法律事務所を構えているが、仕事の大半は、自分の事業にかかわるもの。ほかからの依頼を受けることはなかった。

 父親にとって弁護士は、ステータスであり、自分の価値を高める勲章のひとつでしかない。そんな父親に反感を抱いていたが、理解するようにもなっていた。


 高校2年のとき、母が働きたいといい出した。父親から十分すぎる援助があるので、働きに出る必要はないが、母の友人から、小料理屋を手伝ってくれないかと誘われたからだ。

 美咲は賛成した。いつか自分は、家を出て行くつもりだ。母も自立してほしい。いつまでも父親に頼ってほしくない。できれば、父親とは別れてほしいと、願っていたが、さすがにそこまでは、口に出せなかった。

 美咲が大学に進学し、実家を離れても、母は、これまでどおり小料理屋を手伝っている。お店は11時まで。あと片づけやなにやらで、家に帰るのは、12時近くになることも変わっていないはず。


 美咲には、3人の異母兄がいる。3人とも父親が起こした事業を継いでいる。

 一番上の兄は不動産関連の会社、二番目は飲食店、一番下は自動車販売の会社を任され、3人が3人とも、弁護士を継ぐことはなかった。

 父親のことだから、おそらく3人のうち誰かに、弁護士を継がせたいと思ったはず。しかし、誰ひとり期待に添う者がいなかった。


 進路を考える時期を迎え、母は、美咲に法学部を勧めた。3人の息子が継げなかった弁護士を美咲に継いでほしいといい出した。本妻に対する妾の意地だとも思えたが、母の願いを叶えてやろうと、本気で考えるようになった。

 これまで自由奔放ほんぽうに育ててくれた恩に報いてあげないと、母が可哀想に思えた。それと、父親に対する反抗心も残っていた。父親のように弁護士を商売の道具にするのでなく、弱者を援ける正義感の溢れる弁護士になって、父親を見返してやりたいと。


 母の期待に応え、美咲は、城北大学の法学部に進学した。学費と生活費は、父親が全面的に援助してくれた。若い女性のひとり暮らしは危ないといって、大山のセキュリティの高いワンルームマンションを美咲のために購入したほどだ。

 生活に不安のない美咲は、法律の勉強に打ちこんだ。主席こそとることはできなかったが、それに近い成績を残し、昨年の3月、法学部を卒業。そのまま法科大学院の既修コースに進学したのだった。



「お代りは、いかがです?」

 ぼーっと夜景を眺めていた美咲は、一瞬話しかけられたのがわからなかった。

 カウンターの中から、バーテンダーが美咲に微笑みかけている。それで、ようやく手許にあるグラスが、空になっていることに気づいた。

「同じものをお願いするわ」美咲はグラスを手にして答えた。

「かしこまりました。ところで、今日は、陣内先生は、お見えにならないのですか?」

「ええ、今日はひとりなの。陣内先生は、よくいらっしゃるの?」

「以前は、よくお見えになりましたが、このところは、たまにお寄りいただく程度です」

「可愛い女の人を連れて、でしょう?」

「えっ、ええ……。ときどき女性と一緒のときもありましたが……」バーテンダーは答えづらそうにいった。


「相変わらずモテてるのね」

 そういいながら美咲は、ひと月前、陣内が村木明日香を誘惑していたのも、このバーであったことを思い出した。

 陣内は酒が入ると、誰彼だれかれなく、口説くどき始める。酔えば酔うほど、寂しくなり、誰かがそばについていないと不安になるように。以前は、水商売の女が多かったが、最近は、女子大生にも手をつけるようになっていた。

 いい加減見きりをつけるべきだと、何度も考えたが、なぜか、その踏んぎりがつかないでいるうちに、陣内のことを本気で好きになっていた。もはや陣内なしでは、生きていけないと、思うまでに……。


 美咲は、女性にしては背が高く、豊満な胸と長い脚が目立つバランスのとれたスタイル。大学に入学して間もない頃、街角でモデルにスカウトされたことも。鼻梁が高く、目がぱっちりした美人で、ロングヘアーがよく似あう。

 巷では、法科大学院の『マドンナ』と呼ばれ、何人もの男から交際を申しこまれた。そのたびに、「今は、勉強に集中したいから、交際などしている暇はない」といって断っていた。杉浦功一もそのひとりだった。


 美咲は、陣内の容姿や性格ではなく、頭脳明晰で法律センスのよさに惹かれたのだと気づいていた。将来法律家として活躍するために、陣内のような法律センスを身につけたい。身につけるまでは、決して離れない。女のひとりやふたり、いても我慢できる。そう思うようになっていた。まるで母が父親を許していたように。


「やっぱり母娘だ。よく似ている」と思わず呟いた。

「なにか、ご用ですか?」バーテンダーが近づいてきた。

「いいえ」ひとり言を聞かれてしまった恥ずかしさで、咄嗟とっさに返事をしてしまったが、腕時計を見ると、12時少し前。

「帰りますので、お会計をお願いします」美咲はいい直した。

「かしこまりました」バーテンダーは、近くにいたウェイターを呼んだ。

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