九つここまでキクの花
元旦の町は大さわぎになっておりました。
なんでも神社で人外のものが出たらしく、それが神さまだとか仏さまだとか、悪党どもをこらしめられに天から舞いおりたとか、いやそうではなく狐だか狸だかのしっぽがあったとか、だれもかれもが口々に勝手なことを申しておりました。
あの馬子たちは
「キクや、どこか痛いところはないかい」
「いいえ、ヤタロはそんなに荷物をもって、傷にさわるんではないの?」
街道をもどるふたりはたがいに気づかいにみちていて、どこから見ても、ほんとうの夫婦でありました。
「親分にまた仕事をたのまれてしまったが、それがおわったらしばらくこの町には近づかないがいいだろう。とにかく山にもどったら、ゆっくりするとしよう」
「あい」
山にもどったヤタロとキクは、ふたりっきりの生活を心ゆくまで楽しみました。
ふたりはむつまじい夫婦になりましたが、時がたつほどキクの体がおかしなことになってまいりました。
下腹がおかしいらしく、しきりになでたりさすったり、腰が冷えるなどと申しては、蓑を巻いたり布でくるんだりいたします。
それと、人に化けるのがうまくいかなくなりました。
耳やしっぽが出るならまだしも、肌に毛が生えひげが生え、くしゃみひとつでキツネに戻ってしまうというありさまなので、
「これは、人里にはおりられないなあ。今度の品おろしには俺ひとりで行っておくから、キクはここでゆっくりまっていな。すっといって、寄り道せずにもどるから」
ヤタロが心配してそういうも、
「いやです、キクもいっしょにまいります。キクはヤタロと、いっときもはなれとうないもの」
などといってごねますので、仕方なしにつれてゆくことにいたしました。
春先といえば、キツネの絵馬に、
絵馬にはおもしろかろうというので、キクにキツネの足形をぺたりと
赤い顔料が粋で、これはまた評判になるかもしれません。
暦が
大荷物をもったヤタロと野良仕事ふうにまぶかに手ぬぐいをかむったキクは、街道をゆく人々からさほど目を引くものではありませんでしたが、ときに
道なかばほどでありました。
ほら貝を持った山伏が、道ばたでさい銭をあつめておりました。
どうもよくない気がして、ヤタロたちは足を早めてとおりすぎようといたしましたが、やおら山伏がするどい目をむけ、
「ぶおう」
ほら貝をふきならしますと、
「きーん」
たまらずキクが、キツネにもどってしまいました。
ヤタロがキクをかかえて走りだしまして、その場はなんとかごまかすことができましたけれど。
その日からキクは熱をだし、宿場で何日も足どめとなりました。
医者をよぶわけにもゆかず、さりとてキクを置いてひとり荷をおろしに町へゆくわけにもいかず、まさしく立ち往生でございます。
「ヤタロ、ごめんね、ごめんね」
枕をぬらしてあやまるキクのおでこを、ヤタロは優しくなでてやります。
「気にするでないよ。安心して
キクは
人目につかぬよう、キツネにもどって体を休めようというのでしょう。
ヤタロの手あつい看病もあってか、熱もやがてひきまして、ヤタロとキクはようやく町へむかいました。
が、時がたつほどキクの足はこびはどんどんあやしくなってゆきまして、やっと町の入り口というところで、ついに立ちどまってしまったのです。
「ヤタロ」
ヤタロがふりむくと、キクが悲しそうにこちらを見ておりました。
もう、ヤタロにはわかっておりました。
「キクは、いくよ」
ヤタロは人間で、キクはキツネっこ。
しょせんいっしょにはなれぬのでしょうか。
これがキクとの別れと知ったヤタロの胸にも、言いようのないさびしさがせまります。
だけどヤタロは涙を胸に押しこめ、精一杯に笑いかけ、もういいんだよ、というふうにゆっくりとうなずいてやりました。
「きーん」
キクがひと鳴きいたしますと、そこには初めて会ったときよりも、ずいぶん立派な
つやのある菊色の毛が山水がごとくみごとにそろって流れおちるような、それはそれは美しい雌ぎつねでした。
今日このときまでヤタロはとても幸せでした。
キクとすごした毎日は、生きてて一番幸せな時間でした。
ですけれど、それももうおしまいです。
キツネっこの恩返しは、これでおしまいなのです。
「キクや」
ヤタロがやさしい声でいいました。
「ありがとうよ」
雌ぎつねは、ぱっとどこかへ走ってゆきました。そして遠くから、
「こーん」
という、なごりおしそうな鳴き声がとどきました。
足元には、矢絣のきものと手ぬぐいとうす紅のかんざしと、小さな匙が残されておりました。
ナズナが風にそよいでおります。
山では雪がとけだしております。
春もじきやってまいりましょう。
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