結び文

 その日、宿直明けでうたた寝をする資盛のかたわらに、縹色の結び文が落ちていることに気づいた。姫はわずかに目を見ひらくと、とっさに顔をそむけた。


 見てはいけない、はしたないことをしてはいけない――そう思ったけれど、恋文としか思えないその文を、見なかったことにはできなかった。

 女房たちにも気取られぬように、夫の様子を気遣うふりをして静かにそばへ寄る。寝息を確認すると、そのままそろりと文を手にした。


 胸を打つ早鐘のような音が、どくどくと耳もとで激しく鳴り響く。はやる気持ちと、押しとどめようとする気持ちがせめぎ合い、文を開ける手が震えた。


 ほのかに感じた甘い香りは、結びをほどいた瞬間に濃厚な甘さとなって姫の鼻をつき、それは生理的な嫌悪を呼び起こした。

 かすかに顔をしかめながら目を通すと、ただ一首のみが書きつけてあった。


なにとなく 言の葉ごとに 耳とめて

 恨みしことも 忘られぬかな

(なんとなく言ったわたしのひと言ひと言を聞きとがめて、あなたに恨み言を言われたことも忘れられません)


「なんて美しい手蹟……」


 歌の言わんとするところよりも、その優美な文字が瞬時に目に焼きついた。流麗な女文字はいかにもあでやかで、しばらく忘れていた負の感情が、ひと息に喉もとまでせり上がってくる。


(わたしよりもずっと教養のある方だわ……そう、わたしよりもずっと、殿に相応しい方……)


 なんとも形容しがたい感情に、ぞわぞわと肌が粟立つ。

 周囲のお膳立てで結婚した姫とはちがい、資盛が望んで恋仲になったのかもしれないと思うと、たくさんの縫い針を飲み込んだように胸がずきずきと痛んだ。


 ややあって資盛が身じろぎをすると、姫は慌てて文を結び、もとへ戻した。そして女房たちには気分が悪いと伝え、自分の対屋へと戻った。


 ひとりになった姫は、呆然としながらも文のことを考えずにいられなかった。


(おふたりで喧嘩でもなさったのかしら……殿に責められたことすらも思い出になっている、というようなお歌よね……では、いまはお会いしてないということ? いいえ、恋歌だもの、一日会えないだけでも大げさに詠むものよ。それよりも……)


 逢瀬の真偽以上に、姫には気になったことがあった。


(殿が喧嘩をなさるほど、心を許しておいでになる方がいるなんて――!)


 いつも穏やかでやさしく、それこそ兄のように姫を見守ってくれる夫。

 その夫が相手の言葉尻を捉えて恨み言を浴びせるなんて、まるで子どものように甘えているとしか思えず、苦々しい気持ちがわいてくる。そして女性も、そのことを責めるでもなく、余裕を見せつけるように懐かしむ歌を贈ってくる。


 ふたりのあいだには、絶対的な信頼関係があるのだ。そう思うと、腹の底がしんと冷えてくるのを感じた。


(こんなこと、だれにも言えない)


 勝手に恋文を盗み見た後ろめたさと、女房たちから向けられる羨望の眼差しを失うことへの恐怖に、姫は口をつぐむことを選んだ。

 しかし、狂おしいまでの嫉妬をかかえたまま過ごす日々は耐えがたい。資盛の前では笑顔もぎこちなくなり、資盛が不在のときにはふさぎ込むようになった。


 とうとう見かねた乳母めのとが、まるで幼子をあやすかのように姫の背中をゆったりと撫でながら「どうかされましたか?」と聞いてきたとき、答えるよりも先に姫の目からぼろぼろと涙がこぼれだした。


 言葉に詰まりながらも恋文を見てしまったこと、資盛にはほかに心を許す女性がいるらしいことを姫が告げると、乳母は気まずそうに目を伏せた。

 その様子を見たとたん、姫のこめかみにぴりりとした痛みが走った。


「あなた……まさか、知っていたの……?」


 土下座せんばかりに背中をまるめて謝る乳母に、姫はざっと血の気が引いていく音を聞いた。目眩をこらえようと、脇息へしがみつく。


「どちらの姫なの。いつから、殿と?」


 自分でも聞いたことのないような冷たい声で、乳母を問い詰める。


 乳母はしどろもどろになりながら、その女性がもとは中宮に仕える女房であったこと、諸大夫しょだいぶの娘で能書家の父とそうの名手である母がいること、資盛との仲は数年に及んでいることなどを教えてくれた。

 資盛が姫と結婚してからは、持明院家を憚ってふたりの仲をあれこれと言いたてる者もいるらしい。


「わたしよりもずっと前から……そのひとと?」


 脇息に突っ伏すようにして顔をうずめ、姫は唇を噛んだ。

 いつか夫が聴かせてくれた、あの心が浮き立つような演奏はその女性の影響なのだろう。楽しげに爪弾いていた夫の顔がよみがえる。


(わたしが存じ上げない殿のお顔を、そのひとは知っている)


 いきなり突きつけられた現実に、夫とふたりで育んできた愛おしい時間を容赦なく踏みにじられた気がした。

 それになにより、女房たちは資盛がほかの女性に心を寄せていることをずっと知っていたのだ。知っていて、姫の前では若夫婦を羨むような顔をしていた。


(心のなかでは、わたしのことを笑っていたんだわ。なにも知らずに賀茂の社なんて言うわたしのことを、みんなで――!)


 おのれの幸福を疑うこともせず、すっかり有頂天になっていた自分が恥ずかしいと、姫は屈辱に打ち震えた。


 だからといって、いまさらどうすればいいのか。


 夫の裏切りを知ってもなお、姫が資盛を恋しく思う気持ちに変わりはなく、自分へ注がれる濃やかな情愛がまったくの嘘だとも思えない。下手に騒ぎたてて、面倒な女だと夫に背を向けられたくはなかった。


 それならば、いま選ぶべき正しい道は決まっている。


(わたしは、なにも知らない。なにも聞いていない。あの文も、戯れに交わしただけの恋の真似事……そうよ、宮中ではよくあることだと聞くもの)


 姫はしゃんと身体を起こすと、不安げに見つめる乳母を見据えた。そして、いまの会話は他言無用であること、さらにこの件は忘れるようにと、きつく言いつけた。

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