賀茂の社

 持明院じみょういんの姫と資盛が結婚した翌年、数年来の異常気象による全国的な飢饉のため、源氏の叛乱軍も平家の討伐軍も足止めを余儀なくされた。


 つかの間の小康状態のなか、姫は資盛との結婚生活に穏やかなしあわせを感じていた。

 いまでは「持明院ノ中将」と呼ばれる夫の資盛は、邸内の女房たちが羨むほどに姫を慈しみ、そして大切にしてくれている。


「あなたは、わたしを兄のようにしか思っていないのでは?」


 ときおり、女房たちがいる前で資盛が冗談めかして言うと、きまって姫はふっくらとした頬をさらに膨らませて抗議した。


「意地悪をおっしゃらないでください。わたしは、殿を……」

「うん? わたしを?」

「その……ですから……」


 姫が言いよどむと、資盛は背中から姫を抱きしめ、頬を寄せてきた。


「はっきりと聞かせてくださいな、わたしの可愛いひと

「あの……賀茂の社の、木綿襷ゆうだすき……です」


 若い夫婦を見守る女房たちの視線から逃げるように顔を伏せ、姫は消え入りそうな声で素直な気持ちを伝えた。

 資盛は、おや?と少し驚いた様子を見せてから、姫を抱きすくめる腕に力をこめた。


「古今和歌集だね。一日もわたしを想わない日がないとは、なかなか情熱的な人だ」


 資盛の腕の中で、姫は正しい返事ができたことに安堵した。

 そして、自分の気持ちに相応しいその和歌を心のうちで諳んじると、やはり直截に過ぎたかもしれないと、恥ずかしさに肩をまるめた。


ちはやふる 賀茂の社の 木綿襷ゆうだすき 

 ひとひも君に かけぬ日はなし

(賀茂神社では神事に木綿襷をかけるように、わたしもあなたを心にかけない日はありません)


 まだ幼さの残る姫が恥じらう姿に満足したのか、資盛は耳もとへ唇を押しつけるようにして「よくできました」とささやきかけた。


 まるで屈託がなく開放的な夫は、その場に控える女房たちが赤面するようなことを平気でやってのける。そのたびに姫は翻弄され、羨望と嫉妬の入りまじった視線を一身に浴びることになる。


 しかし、結婚当初は居心地の悪さを感じていたそれらの視線も、いまでは誇らしく思うようになっていた。


(わたしがこんな気持ちになるなんて、不思議だわ)


 ややもすれば卑屈になりがちだった姫には、自身の前向きな変化に驚くばかりだった。それもこれも、大胆に姫を導いてくれる夫のおかげだとしか思えない。


 しかし、和歌や筝のことになると、資盛は極めて繊細な感性を見せた。

 とくにそうの琴と向きあうときには、まるで恋人に対するかのようにやわらかく慇懃で、うっかり嫉妬してしまいそうになることもある。


 その資盛が、一度だけ奇妙な筝の音を聞かせてくれたことがあった。何度もおなじ箇所を間違える姫の手を止めさせ、どうしたものかと考えるような素振りを見せると、ぱっと明るく言った。


「あなたは、少しむずかしく考えすぎなのかもしれないね。正しく弾こうと、そればかり考えているでしょう。それよりも、まずは楽しまないと。弾くことが楽しくなれば、きっと上手になるから」


 夫のその表情には、いくら教えてもなかなか上達しない姫を責める様子はまったくない。さらには「見ていてごらん」と言って、姫がこれまでに聴いたことのないような拍子で、激しく緩急をつけながら筝を弾きはじめた。


 なんとも軽やかで、まるで心が浮き立つような楽しげな早弾きに、姫はすっかり魅了された。


妙音院流みょうおんいんりゅうでは、そのような弾き方もあるのですか?」


 興奮気味に聞いた姫に、資盛はわれに返ったのかふいに手を止めた。


「あ、いや……これは妙音院流ではないよ。こんな弾き方をしては、正統ではないと破門になってしまう。――うん、やはりこの弾き方は、あなたには真似させられないな。品がない」

「……はい、わかりました」


(とても楽しそうに弾いてらしたのに……。妙音院流ではないのなら、どなたに習ったのかしら?)


 聞きわけの良い返事をしながらも、持明院の姫は夫の言動にはじめての違和感を覚えた。

 ごく小さなその違和感は、季節のうつろいとともに忘れつつあったが、それは夫が迂闊にも袖からこぼした文によって再燃した。

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