真実の夫婦

 年が明けた寿永二年(一一八三)。

 正月、資盛は近衛権中将のまま蔵人頭に任じられた。


 頭中将と言えば激務で知られ、それは資盛も例外ではなかった。

 そのうえ、飢饉が改善の兆しを見せはじめたことで北陸討伐が再開され、資盛の周辺はこれまでになく慌ただしく、持明院第へ戻ることもままならない。


 姫にもひとり寝の夜が増え、ずいぶんと寂しい思いをした。しかし、顔を合わせないでいれば、夫の不貞に素知らぬふりをすることも簡単だった。


(殿は、わたしが知っていることをご存知なのかもしれないけど……)


 まれにしか会えない寂しさもあり、資盛を前にすると衝動的になにもかも言ってしまいそうになることもあった。

 けれど姫はその気持ちを抑えこみ、笑顔で夫を出迎える。

 それなのに、そういうとき、夫はきまって姫に向けてもの言いたげな顔を見せてくるのだ。


――なにか、言いたいことがあるのでは?

――いいえ、なにも……


 無言のまま、互いの肌に感じる気配だけでくり返される会話。

 ひと言でも触れてしまえば、きっと取り返しのつかないことになると、姫は涙とともに言葉を飲みこんでいた。


 しかし一度だけ、姫は資盛の前で涙を見せてしまったことがある。

 夜明け前に帰宅した夫から、ほんのわずかだったけれど結び文とおなじ香りを嗅ぎとり、われ知らず涙を流していた。


 なにを聞かれても押し黙ったままの姫に、資盛は「わたしとあなたは行く末を契った仲なのだから、言いたいことがあれば遠慮せずにおっしゃい」と、穏やかに涙の理由わけを聞こうとしてくれた。


 それでも姫が首を振って無言を貫くと、小さなため息を落として「そう」とだけ言って引き下がった。


 やがて姫にとっても、資盛にとっても、そして歴史的にも大きく事態が動いたのは七月のことだった。


 秋の除目で資盛は従三位になり、近衛権中将の官職はそのままに、激務だった蔵人頭の任を離れた。

 しかし、北陸から攻め寄せてくる木曾軍は着実に都に近づきつつあり、資盛はいまだに慌ただしい日々を過ごしている。


 数日ぶりに持明院第へ帰ってきた夫に、平家は都を棄てて西国へ行くことも考えている、と聞かされた姫は色を失った。


「殿は……殿は、こちらにいらっしゃるのですよね?」

「……」


 よほど疲れているのか、脇息にもたれたまま倦んだ目であらぬ方を見る資盛に、姫は重ねて声をかけた。


「殿……?」

「ああ……まだ、決まったわけではないのだよ。都に残るべきだと言う者もいる」

「殿は、どうなさるのですか?」

「……さあ、どうしたものかな」


 夫の煮え切らない態度に、剣呑とした不安が姫を襲った。


 資盛の兄が追討使の大将として、たびたび戦に出ていることは聞いている。

 しかし、夫は平家と言えども持明院家の婿なのだし、謀反人の娘を妻としていた夫の兄とは立場がちがう。だから戦に関わることはないだろうと、姫はぼんやりと思っていた。


(まさか、殿まで西国へ行っておしまいになるの?)


 資盛が頭中将であった半年あまりでさえ、滅多には会えないことが心細く、たまらなく寂しかった。

 この上、都を離れて西国へ行ってしまったら、つぎはいつ会えるというのか。


(いやよ、殿と離れて過ごすなんて、わたしにはできない――!)


 姫の怖れにも近い焦りを感じとったのか、資盛は淡々と「そうなったときには、都でわたしの帰りを待っていて欲しい」と言った。しかし、姫は沈痛な面持ちで首を振りつづけた。


「わたしも、殿について参ります。どうか西国へお連れください」

「それはいけない。なにより、基家どのがお許しにならないよ」


 呆れたように言う夫へ、姫はにじり寄る。


「父上の許しなど必要ありません。わたしは殿の妻です」

「……あなたの気持ちは、とてもうれしく思うよ。でもね、これは物見遊山ではないのだから、わがままを言うものではないよ」

「ですが――」

「それに、西国での生活が、あなたに耐えられるとは思えない」

「殿、わたしは――」

「とにかく、あなたをお連れすることはできないし、そのつもりもない」


 まったく聞く耳を持たない資盛に、姫の心にぷつりと穴が開いた。

 どろりとしたものが流れ出し、黒い染みがまたたく間に広がってゆく。それは、姫の理性を押しやった。


「――あの方を、お連れするのですか」

「あの方……? だれのことかな」


 まったく心当たりがないとでも言いたげな夫の態度が、姫を激昂させた。


「と、殿が長年、情けをかけていらした女性です! 聞けば、すでに身寄りもない方だとか。そうであれば、どなたもお引き止めになりませんものね。ええ、ええ、その方をお連れすればよろしいのですわ!」


 堰を切ったように言葉があふれ出す。

 姫はこんなにもするすると淀みなく、自分の思っていることが口をついて出てくることに驚いた。


「……やはり、知っていたのだね」

「残念でございましたね。わたしのことをなにも知らない愚かな妻だと思っておいでだったのでしょうけれど、わたしはずっと存じ上げておりました」

「愚かだなんて、そんなことは――」

「ほんとうは、わたしではなく、あの方をご正室になさりたかったのではないですか? あの方がもっと身分のある方なら、そうなさったのではないですか? わたしのことは、父上から押しつけられただけなのでしょう?」


 夫が口を挟もうとするのを遮り、姫は心に溜めていた思いをぶつける。もう、自分でも止めることができなかった。


「押しつけるなんて……。あなたは少し、落ち着いたほうがいい」


 興奮している姫をなだめようと、資盛が手を伸ばしてくる。姫はその手をするりとかわし、なおも言いつのった。


「いいえ。殿は、あの方と喧嘩をなさるほどお心を許しておいでなのでしょう? わたしなんかよりも、ずっとずっと、あの方に心を開いていらっしゃる。だから喧嘩をなさるのよ。わたしとは、一度もそのようなことはなかったではないですか!」


 目に涙をためて、頬を紅潮させながら感情をあらわにする姫に、資盛はぽかんとしていた。そして、困ったような顔でくすりと笑った。


「――ねえ、わたしたちはいま、喧嘩をしているのではないかな?」

「え……」


 今度は、姫が目をぱちくりとさせる。


(殿と、わたしが、喧嘩をしている?)


 あれほど昂っていた感情が、しゅんという音が聞こえそうなほどに剥がれ落ち、伸ばされた夫の腕へ引きよせられるように身体をあずけた。


 頭の上から、耳に馴染んだ穏やかな声が、やや湿り気をおびて落ちてくる。


「あなたには驚いたな……でも、わたしはね、あなたがこうして本心から打ち解けてくれるのを、ずっと待っていたんだよ。あなたはいつも我慢をしていて、心のうちを見せてはくれなかったから」


 そうだった、と姫はうなずいた。

 いつも正しい答えを探して、自分の本心をさらけ出すことから逃げてきた。


 それがいま、心の膿を出しきるように感情を爆発させた姫は、言いようもないほどに清々しい心地で資盛の声に耳を傾けていた。


「――あのひとのことは、申しわけなく思う。……長いつきあいで、どうしても断ち切ることができなかった。でも、ずるいことを言うようだけど、わたしはあなたと、真実まことの夫婦になりたいと思っていたし、これからでも、そうなれると思っている」


 姫は資盛の胸もとへ甘えるように鼻を押しつけると、ゆっくりと顔をあげて眉尻を下げる夫と目を合わせた。


「わたしを、信じてくれるかな……?」

「……そう、できるように、努めたいと思います」


 言葉を選びながら、偽りのない、正直な気持ちを伝える。以前の姫ならば「もちろんです」と、笑顔すら浮かべて答えていただろう。


「ありがとう」


 安堵した声で言う夫の肩へ、姫は頭をあずけた。


 平家が帝を奉じて西国へ落ち延びたのは、それから間もなく、七月二十五日のことだった。

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