11

 夏休みの宿題によって、暇で仕方なかった生活が一変した。

 私は検診を受けている間と体調が悪くて安静にしているとき以外、ほとんどの時間を宿題に費やしていた。早苗の都合がつくときは数学を教わり、私一人のときは国語と英語を解いていく。勉強量はさながら受験生であった。受験したことないから適当に言ってるだけだけど。

 学校にいた頃より多くなった勉強時間に苦しむ一方で、喜ばしいこともあった。早苗の指導の成果が出てきたのだ。自力で解決できる問題が増え、宿題を進めるスピードも徐々に上がってきている。早苗がしっかりと下地を作ってくれたおかげで、私は苦手だった数学を克服しつつあった。

 右腕のギプスが取れるまで残り一週間。それまでにまだ半分以上残っている宿題を終わらせようと、より一層気合いを入れたこの日。

 それは起こった。

「早苗先生、今日もよろしくお願いしま……あれ?」

 解き方が分からない問題について質問すべく早苗のもとを訪れた私は、見慣れない光景を目にして足を止める。

 早苗のベッドの脇に見知らぬ女性がいた。くっきりした目鼻立ちとくすみのない白い肌を持つ美人で、大きめのバレッタでコンパクトに纏めた長い黒髪が大人っぽい雰囲気を漂わせている。背もすらりと高くて、袖口が広い黒のトップスにネイビーのロングスカートを合わせた装いがシックに引き締まっている。

 その女性と、ベッドの上で足を伸ばして座っている早苗が、部屋に入ってきた私に目を向ける。その瞬間、私は女性が誰なのかを理解した。二人の顔はよく似ていて、そこに血の繋がりがあるのは明らかだ。

「えっと、初めまして。桜井陽子っていいます。早苗の友達です」

 私は女性に名乗ってお辞儀した。女性はなぜか面食らった様子だったが、やがて我に返ったのか、向こうも優雅に腰を折る。

「陽子さんね。初めまして。私は早苗の」「陽子。今日の勉強はあなたの部屋でやりましょ」

 早苗が突然、きっぱりとした声で女性の挨拶をぶった切った。そして機敏な動きでベッドから起き上がると、私の腕を掴んでぐいっと引く。

「え? あの、ちょっと」

「いいから早く」

 突拍子もない早苗の行動に戸惑う私だったが、有無を言わさず病室から連れ出される。部屋を出る間際、去っていく私たちを見送る女性が少し悲しそうな顔をしていた。

 いつもの五割増しで早歩きの早苗に引っ張られて廊下を移動する。私は何が起こっているのか分からず早苗に説明を求めようとしたが、早苗は「うるさい」の一点張りで取り合ってくれない。

 そうして私は自分の病室に帰ってきた。志田さんはテレビを観に一階に出掛けているので、部屋には私たち二人きりだ。

「さて。今日は何を教えればいいのかしら」

 私の腕を離した早苗は来客用の椅子に腰掛けて、そのまま何事もなかったかのように勉強会を始めようとする。廊下では大人しく口を噤んでいた私だったが、今度は看過できなかった。

「ちょっと待って。えっと、急にどうしたのさ」

「どうって、今日はここで教えたい気分になったのよ」

「そうじゃなくてさ」

 早苗がとぼけるので、私は具体的に切り込む。

「さっきの人、早苗のお母さんでしょ? なんで置いてきたのさ」

 早苗がぴたりと静止する。さすがにごまかせないと悟ったのか、ほどなくして彼女は溜め息を吐いた。

「そうよ、あれは私のママ。訳あって一緒にいると気まずいのよ。極力話したくない。それで、あの場であなたとママが話を始めたら私も巻き込まれそうだったから、こうして逃げてきた」

「なるほど」

 早苗の頭がおかしくなったわけではないようで、私はとりあえず安心した。

「お母さんと仲悪いの?」

「仲が悪いというのは少し違うわね。ママのことを嫌ってるわけじゃないの」

 適切な表現を探すように考え込んだ後、早苗は口を開く。

「合わせる顔がない、みたいな感じね」

「うーん?」

 それは一見繋がりがなさそうな言葉に思えたのだが。

「あなたは経験ないかしら。病気のことで親に掛ける迷惑について、申し訳なく思うこと」

「!」

 続く言葉で、ようやく早苗の言わんとしていることを察した。

「分かるよ。私もいつもそうだから」

 分かるどころか身に覚えがありすぎる。私は心筋症を発症してから家族にたくさん世話をかけてきた。まだ症状が軽かった頃にも通院と服薬で決して少なくないお金と時間がかかっていたし、入院してからは尚更だ。そういった家族への負担について、私はずっと負い目を感じていた。

 だから、早苗が言う一種の気まずさに関しては共感する。しかし。

「でも、それで口を利かないっていうのは良くないんじゃない?」

 早苗が親に冷たく振る舞うことには、私は納得できなかった。

「早苗のご両親は、早苗に生きててほしいから面倒を見てくれてるわけでしょ? その気持ちをあだで返すような真似は、きっとご両親が傷つくよ」

 現に、さっき病室に置き去りにされた早苗母は寂しそうだった。世話を焼いている娘に邪険にされるなんて、あまりに可哀想な仕打ちだ。

「君のためにがんばってくれてるんだから、仲良くしようよ」

 私は早苗に考えを改めてほしくて、そう助言する。

 しかし。

「私のため?」

 対する早苗の返事は、まったく予期していないものだった。


「私はもう、生きていたいなんて思ってないのに」


「え?」

 私は最初、早苗がなんと言ったのか分からなかった。だが、呟いた彼女の仄暗ほのぐらく乾いた目を見ているうちに、耳で聴いた言葉への理解が追いついて、ぞくりと悪寒が走る。

「何言ってるの? 冗談だよね……?」

「本気よ」

 ふざけている様子は一切なかった。生きていたくない。早苗は本当にそう思っている。それが分かった途端、私は胸が潰れるような哀情あいじょうを催した。

「どうしてそんなこと言うの」

「生きているだけ無駄だからよ」

 早苗が自分のこめかみを指差す。

「私の病気のこと前に話したでしょう? 頭の中に腫瘍があって、それを消すために入院して投薬を続けているって」

 外科手術での摘出が難しい場所にある腫瘍なので、薬剤を用いて除去する。それが早苗が受けている治療である。

「でも腫瘍は一向に小さくならない。この五年間、私の病気は少しも良くならなかった。だから思ったの。私の病気は治らなくて、この先ずっと治療を受け続けるんだろうなって」

 そんなことはない、いつかきっと治るはずだよ、と言い返したかった。だが、五年間の長い入院生活を経験したことがない私に、そのような気休めを軽々しく口にする資格はない。

「一生病院から出られない。その上、治療費と介護の負担を家族に掛け続ける。そんな私に、生きてる意味があると思う?」

 彼女は、自分の身の上をあざわらう。

「いいえ。死んでしまった方がマシよ」

「!」

 聞いていて息が詰まるような、重い告白だった。

 そして私は合点がいく。早苗が時折見せる、世の中にみ疲れたような面持ちの正体に。

 私が人生の目標を語ったとき、早苗が悲しく羨ましそうにしていたのはなぜか。

 せっかく勉強が得意なのに、それを無用であると卑下ひげしていたのはなぜなのか。

 それは、早苗が人生を諦めているからだ。病気が治ることなんて微塵も期待せず、むしろ自分は死ぬべきだとすら考えている。

「昔、ママにも同じ話をしたの。もう私のことはいいよ、って。ママは怒って、そのあと泣いてたわ。それ以来、私たちはぎくしゃくしたままなのよ」

 思うようにならないものね、と早苗は嘆く。当たり前だ。自分の子供が死んでもいいと思っている親なんてまずいない。どんなに代償が大きかろうと、早苗の家族は早苗に生きてほしいと願っているはずだ。

「いっそ本当に死んであげられたらいいのだけれどね。生憎あいにく、自殺に踏み切れるほどの勇気はまだないわ。ダメね、私」

「早苗……」

 自傷のような自嘲に、ずきり、と心が痛む。

 私は早苗に生きていてほしいけれど、生きることに後ろ向きな早苗の考えにも共感する部分がある。彼女を死の誘惑から救い出してあげたいのに、どんな言葉を掛けてやればいいのかが分からない。

 早苗はなぜこんな破滅的な思考に至ったのだろう。難しい病気を抱えていて、家族に面倒を見てもらっていることに引け目があるのは私も同じだが、死にたいと思ったことは一度もない。私は生きていて楽しいし、やりたいことだってまだまだたくさん――

「あ」

 ああ。そういうことだったのか。

 疑問は不意に解けた。あまりにも単純な帰結だった。

「早苗はさ、生きてて楽しい?」

「いいえ」

「じゃあ、生きているうちにしたいことは何かある?」

「いいえ」

「そっか」

 答え合わせをすると、予想通りの返事が返ってくる。これでようやく腑に落ちた。

 なぜ早苗は生きていたくないのか。

 それは生き甲斐がないからだ。

 早苗には生きる目的がない。生きている楽しみや、やりたいことなどといったものが彼女には欠けているのだ。ゆえに、生きていると家族に迷惑だからという理由だけで生を諦めることができる。そこが私との違いだった。私はもっと絵を描いていたい。そして人の心を動かす珠玉の作をこの世に遺したい。だからまだ死ぬわけにはいかないのだ。

 生き甲斐がないことが、早苗が生きていたくない理由だった。

 それならば。

 死を望む早苗を振り向かせることができるかもしれない。

「だったらさ」

 私は震える声で宣言した。

「早苗が生きる理由を、私が作るよ」

「陽子? 急に何?」

 怪訝そうにこちらを見上げる早苗に、自分の思いをぶつける。

「私が早苗の人生を楽しくしてあげる。一緒に遊んで、いっぱい笑わせて、たくさん楽しませてあげる。たとえ病気が治らなくても、家族の重荷になって申し訳なかったとしても、それでも生きていたいって、私が思わせてあげるから!」

 激しく揺れる私の語気に、早苗が息を呑む。

 簡単な話だ。生き甲斐がないのなら、与えてやればいい。私が彼女を楽しませて、生きる喜びを味わってもらえばいい。生きていることで払う代償を気に病むのであれば、それをはるかに上回るくらい幸せになってもらえばいい。

 それが、友達である私が彼女のためにできることだ。

「だからさあ!」

 私は懇願する。

「死んだ方がマシなんて、言わないでよぉ……!」

 悲しみが。怒りが。慈しみが。様々な感情がないまぜになって、せき止められなくなって、溢れた。溺れているみたいに視界が滲んで、熱いものが頬を滑り落ちていく。

「ちょっと、どうしてあなたが泣くのよ」

「だってぇ……!」

 その先は、込み上げる嗚咽で言葉にならなかった。

 早苗は死にたがっていて、いつか私の前からいなくなってしまうかもしれない。それが不安で嫌で仕方なくて、情緒がぐちゃぐちゃになってしまう。

 いきなり取り乱した私にしばし呆れ果てる早苗であったが。

「……私はもう生きることを諦めているのに。あなたも、ママも、みんな諦めてくれないのね」

 ほとほと参ったとばかりに一つ大きく息を吐き出した後、美しい顔に弱々しい笑みを浮かべる。

「その執着が、私を繋ぎ留める。死んだ方がいいって理屈では分かってるのに、踏ん切りを付けられずにいる。だから私は罪悪感で潰れそうになりながらも、未だに生き永らえているのよ」

 早苗は椅子から立ち上がると、私の体を抱き寄せた。

「あなたがそんなだと、私まだ死ねないわ。だから陽子、もう泣かないで?」

 子供をあやすような手つきで、早苗が私の髪を撫でる。触れてくる手は温かくて、その熱で早苗が生きていることを実感する。早苗がここにいることをもっと確かめたくて、私は彼女を抱きしめ返した。

「死なないで」

「ええ」

「絶対に死なないで」

「ええ」

 この温もりを失ってたまるものか。絶対に死なせてやるものか。

 早苗が前向きに生きていけるように、死にたいなんて考える余地もなくなるくらいに、私が生きる理由を作ってやる。

 私はこのとき、そう心に誓ったのであった。

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