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 セミの鳴き声が聞こえるようになって、いよいよ本格的な夏の訪れを感じた。やかましくてたまに意味もなく人にぶつかってくるセミのことをいつもは鬱陶しがっていた私だが、外に出づらく院内に籠りがちな今年に限っては、夏らしさを感じさせてくれる貴重な存在として少しありがたいとすら思っている。

 入院してもうじき二〇日ほどになるが、ここでの生活にはだいぶ慣れた。心臓の状態の定期検診と、各種治療薬の投与・服用があるだけで、それ以外は自由時間のシンプルな毎日だ。担当医や看護師の人たちはみんな親切だし、世間では不味いと言われがちな病院食も食べてみれば普通に美味しい。入院前に想像していたよりも環境はかなり良かった。

 ただし、膨大な余暇に関しては相変わらず悩みの種であった。早苗と遊ぶようになっていくらかマシになったものの、それでも私は時間を持て余している。どれくらいかと言うと、本当に何もやることがないときには性懲しょうこりもなく左手で絵を描いているほどだ。下手な絵しか描けないが、何もしないでいるよりは気が紛れる。無為な時間を過ごしたくない私は、何でもいいからやることをくれと嘆いていたのであった。

 そんな私にこの日、幸か不幸かやるべきことが降ってきた。

 午後イチで来院した母が、私の通学鞄をスツールの上にどさりと置く。

「何これ」

「夏休みの宿題」

「え? ……ああ」

 頭が言葉を呑み込むのに数秒かかった。七月も既に下旬。世間ではもう学校の夏季休暇が始まっていたのである。ずっと病院にいるせいで、そんなこと曜日感覚ごと忘れ去っていた。

 鞄の中身を確認する。クリアファイルで一纏めにされている宿題の他、教科書やノート等もすべて揃っていた。

「ん?」

 宿題の束の中に空色のメモ用紙が紛れている。そこには見覚えのある筆跡で短いメッセージが書かれていた。


 つらいだろうけど、治療がんばれ

 陽子ちゃん! ファイト!

 早く帰ってきてね、待ってるよ


「みんな……!」

 それは学校の友人たちからの激励だった。

「わざわざ家まで届けに来てくれたのよ。いい友達がいて良かったわね」

「うん」

 寄せられた応援にじんわりと胸が温かくなる。決して楽ではない闘病生活だが、挫けずにがんばろうと私は決意を新たにした。

 感傷に浸るのはほどほどにして、今は宿題である。

「けっこう多いじゃんか……」

 課題の量をざっと確認して私はげんなりする。国数英の三科目だけだが、プリントの厚みはなかなかのものだった。

 自慢じゃないが、私は勉強があまり得意ではない。数学に至っては授業の内容を半分も理解できちゃいないレベルだ。理解できないものが面白いわけもなく、当然私は勉強が嫌いなのであった。

 確かに私は暇を潰せるものを求めていたが、与えられたものが宿題となれば話は別。座禅でも組んでいる方がよほどマシだ。そう思ったのだが。

「宿題全部終わるまで絵は禁止ね」

「は⁉ なんで⁉」

 突然課された謎ルールに私は耳を疑った。私から絵を取り上げるだと? ヤドカリが背負っている貝殻を奪うに匹敵する非道の行いだぞ?

 腹に据えかねる私だったが、そこへ母から説教が飛ぶ。

「だってあんた、夏休みは毎年遊び惚けて最終日まで宿題溜め込むじゃない。もう中学生なんだし、余裕を持って終わらせるってことをいい加減に覚えなさい」

「そんなぁ」

 厳しい正論に説き伏せられて私はしょげかえる。

「どうせその腕じゃ大した絵も描けないんだからいいじゃない」

「あのー、絵が描けないなら宿題もできないと思うんですが」

「気合いでなんとかしろ馬鹿娘」

 そう言って母は、マジで私からスケッチブックを没収して帰っていった。

「どうしよう」

 私の右腕のギプスはお盆の手前頃に外れる予定だ。それまでに宿題を終わらせておかないと、創作活動の再開に支障が出てしまう。だが出されている宿題を、怪我の完治までに終えられるとはとても思えない。

 かくなる上は――



「助けてサナえも~ん!」

「うわ。とても面倒くさそうな予感……」

 病室に駆け込んできた私を見て、早苗は話を聴くまでもなく眉を顰めた。

 母が帰ってから宿題に着手してみたところ、国語と英語はなんとか自力でこなせそうなことが分かった。しかし苦手な数学に関しては取っ掛かりすら掴めない問題も多く、私は早々に匙を投げだした。

 分からない部分を自分で調べて進めていては効率が悪く、恐らく腕が治るまでに宿題を終えられない。そこで私は早苗に協力を仰ぐことにした。彼女に先生役になってもらうことで、私の学習速度を上げようという作戦である。

 そういうわけで、早苗に私が立たされている窮地について説明し、勉強の指導を乞うてみたのだが。依頼の詳細を聴き終えた早苗は難色を示した。

「私、人に教えたことなんてないんだけど」

「でも早苗って、如何いかにも勉強できそうって感じじゃん? 大丈夫でしょ」

「それ、褒めてるようで若干ディスってない?」

「いえいえそんな、滅相もない」

「確かに陽子よりは出来ると思うけど」

「そっちのディスりの方が酷くない?」

 引き受けてもらえるようご機嫌を取ろうとしたものの、効き目はいまいちだ。

「そもそも私にメリットないわよね」

「うっ。それはそうだけど……」

 痛いところを突かれる。ご指摘のとおり、これは完全に早苗の善意頼みである。何の見返りも用意せず頼みごとをするのはさすがの私も良心の呵責を感じていた。とはいえ、私が早苗にしてやれることなんて何もない――

「そうだ!」

 ふと閃いた。私は患者衣のポケットからあるものを取り出す。

「これと引き換えなんてどう?」

「え、ちょっと……!」

 早苗の目に動揺が浮かぶ。

 私が差し出したのはチョコチップクッキーだった。さっき部屋を出てくる前に志田さんがくれたのである。

 早苗が非難がましく私を睨む。

「ここお菓子禁止なんだけど」

「分かってる。だから秘密の取り引きだよ」

 早苗の同室者は出掛けており、今は部屋に私たちだけ。二人とも口を閉ざしていれば悪行が明るみに出ることはない。

 情けないが、私に出せるものといえばこれくらいだ。早苗が食べ物に釣られるほど単純だとは思えないし、正直、九割九分九厘断られると踏んでいたのだが。

「馬鹿馬鹿しい」

 口ではそう一蹴する早苗。しかし私は見逃さない。早苗は私の手をチラチラ見ていた。意外にも彼女はクッキーに関心を寄せている。これはもしかすると脈があるかもしれない。

「本当は食べたいんでしょ?」

「なっ。そんなこと、」

 顔を寄せ、声を潜めて問うと、早苗は分かりやすく狼狽えた。好機と見た私はここで一気に畳み掛ける。

「我慢しないで。早苗はおいしい物を食べられて、私は宿題をスムーズに進められる。お互いに得なんだからさ。お願い!」

「くっ……!」

 トドメだった。早苗は物欲しげな顔でたっぷり一〇秒間悩んだ末、観念したようにクッキーを手に取る。かくして私たちは秘密の契約を結んだのであった。



 取り引きに応じた早苗は、心底美味しそうにクッキーを堪能した後、約束通り私の勉強の面倒を見てくれた。進め方はシンプルで、私が問題を解いていき、行き詰まったら早苗に解き方を教わるという図式だ。

 早苗の学力は私が見込んだとおり相当なもののようで、私の宿題の内容に目を通して「あーこれは余裕だわ」と拍子抜けしていたほどである。

 一方で、早苗の指導はかなり厳しかった。というのも、早苗は解法や正解を直接教えるのではなく、ヒントを出したり逆に質問したりすることで私に解き方を考えさせてくるのである。「学問の本質は解き方を覚えることではなく、解き方を考える力を身に着けることよ」というのが早苗先生の弁だ。

 根本的な理解を重視するこのやり方は、時間がかかるし頭も使う。さっさと宿題を終えられるなら何でもいい私としては、要点だけ掻い摘んでサクサク進めてほしかったのだが、こちらから指導を頼んだ手前、方針にケチを付けるのもはばかられ、私は早苗に従わざるを得なかった。

「今日はこの辺にしておきましょ」

 キリのいいところで、早苗が今日の勉強会の終了を宣言した。

「疲れた~」

 私は椅子から立ち上がって伸びをした。苦手な科目と向き合っていたことに加え、左手で字を書くという慣れない作業をしていたこともあり、どっしりとした疲労を感じる。

 窓の向こうにはいつの間にか夕焼けが広がっていた。勉強に集中していたせいだろうか、時間が経つのが早かった気がする。

「それにしても全然進まなかったなあ」

 初日の進捗は芳しくなかった。簡単な公式もうろ覚えな私の惨状を目の当たりにした早苗が、問題を解くことより基礎の叩き込みを優先したためである。

「これ怪我治るまでに間に合うかな」

 ゴールの遠さに弱音を吐くと、早苗からフォローが入った。

「最初は進みが遅いだろうけど我慢して。序盤の内容への理解が浅いまま次に進んでも、必ずどこかで停滞することになるわ。逆に基本をしっかり身に着けておけば、後半が楽になって宿題のペースも上がってくるはずよ」

「ぐぬぬ。がんばります」

 楽な近道はなさそうだった。今は早苗を信じてついていくしかない。

「今日やったところはもう大丈夫そう?」

「それはばっちり!」

 私は自信満々に答える。歩みは遅かったものの、今日教わった部分は完璧に覚えることができた。

「早苗の説明が分かりやすかったからね」

 早苗は頭が良いだけでなく教え方も上手だった。私がどこで躓いているのかを把握するのが早く、私の疑問に対する解決の提示も丁寧でスマートだった。

「勉強できるのって本当すごいと思う。私も早苗くらい頭が良かったらなあ」

 私は羨ましがってみせるが、早苗の反応は素っ気なかった。

「別に。他にやることがなくて暇だから覚えてしまっただけよ。こんなもの何の役にも立たないわ」

 ひやり、と一瞬背筋が凍った。暇を持て余す入院生活を憂うような発言に、またぞろ彼女の地雷を踏んでしまったのではないかと思ったのである。

 だがそんな心配とは裏腹に早苗は落ち着いていた。クールに、ドライに、つまらなそうな様子で、暮れなずむ夕空を眺めている。

「そっか」

 怒られなかったことにひとまず安堵するが、早苗の横顔には、どこか諦観に似たアンニュイさが滲んでいる。私は見てはいけないものを見てしまったような気がして、そそくさと帰り支度を始めた。

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