12

 緊張と興奮が入り混じって、ちょっとハイな気分だった。

 二日ぶりの太陽が顔を覗かせている昼下がり。私は一つ深呼吸して気持ちを落ち着けてから、意を決して病室に入った。

「し、失礼します」

「待ってたわ。元気?」

 ベッドの縁に腰掛けていた早苗が、片手を上げて私を迎え入れる。

「大丈夫。そっちは?」

「問題ないわ」

 お互いの体調を確認し合ってから、早苗は私の右腕に目をった。

「ちゃんと治ったのね」

「うん」

 私は覆いがなくなった右手で握って開いてを繰り返し、万全であることをアピールする。

 私の右腕のギプスは予定通り今日の午前中に外され、折れていた骨はきちんとくっついて完全に元通りになっていた。私は怪我の完治を喜び、ひと月余りを共にしたギプスに感謝しながら別れを告げたのであった。

「それだけじゃないよ。ほら」

 嬉しい出来事はもう一つ。私は左手に持っていた薄幅の手提げバッグを掲げる。それは私物の画材バッグだった。

 早苗のサポートの甲斐あって、夏休みの宿題は目標より早く終わった。したがって母に言い付けられていたお絵描き禁止令は解除され、昨日無事に画材を取り返すことができたのである。根気よく面倒を見てくれた早苗には感謝の念が尽きなかった。

 これで私のお絵描きを邪魔するものはもうない。

「そういうわけで、リベンジに来たよ」

 今日、早苗にもう一度私の絵を見てもらう。その目的は二つあった。

 一つは早苗に絵のモデルを頼むためだ。私の絵の力量を見せて彼女を説得する。利き腕を封じられた状態で臨んだ前回は無様な姿を晒してしまったが、今回こそ早苗に首を縦に振らせる所存である。

 そしてもう一つは、早苗が生きる理由を作ることだ。

 この一週間、早苗が前向きに生きてもらうために自分ができることについて考えた。その結果、やはり私には絵を描くこと以外にないという結論に至った。私が早苗の心に響く作品を描ければ、私の絵を見ることが彼女の生き甲斐の一つになるかもしれない。少しおこがましい発想ではあるが、早苗が生きようと思ってくれるのなら何だってやるつもりだ。

 自分と早苗のため。今日の挑戦には、そういった意味が込められている。

「描くものは、ええと、どうしようかしら」

 早苗が部屋の向かいに横目を向ける。今日は同室の女性が部屋にいた。この前と同じく窓際に飾ってあるプリザーブドフラワーをモチーフにするのであれば、持ち主に伺いを立てなければならないのだが。

「今日は庭に行こうと思ってるんだけど、どうだろう?」

 私は前回実現しなかった案を出す。昨日一昨日と雨が降った影響で、今日は気温がさほど高くない。私たち二人とも長いこと屋外に出ていなかったこともあり、気分転換も兼ねて外で絵を描きたいと思っていた。

「いいわね。外の空気も吸いたいし」

「ありがとう!」

 そうして意見が一致し、私たちは裏庭に足を運ぶことになった。

「まぶしっ」

 建物の裏口から外に出た私は、目を射る日差しに思わず瞼を閉じた。早苗も眩しそうに手を顔の前にかざしている。空の半分は千切れた綿みたいな雲に覆われているのだが、八月の太陽は雲の隙間越しでも燦然さんぜんと輝いている。

 狙い通り、外は過ごしやすい気温だった。そのためか、私たちの他にもちらほら庭を散歩している入院患者の姿が見える。

「うーん! やっぱ外はいいねえ」

 花に囲まれた小道を歩きながらぐっと体を伸ばす。天井のない解放感が久しかった。外に出るのは十日ぶりだっただろうか。梅雨明け以降は晴れの日が多かったのだが、天気が良すぎてうだるような猛暑がほとんどだったため、私はもっぱら院内から出ずに過ごしていた。早苗と一緒に庭に来たのもまだこれが三回目だ。

 隣を歩く早苗が訊ねてくる。

「今日は何を描くの?」

「ふふふ。実はちょっと前から目を付けていたものがあるのだよ」

 先日、早苗の病室から庭を見下ろしたときにその存在に気付いて、是非一枚描いておきたいとうずうずしていたのだ。

「おお!」

 目的の場所に辿り着いて、私は歓声を上げる。やってきたのは庭園の一角にあるレンガで組まれた花壇。目当てのものは、その花壇の内側で空に向かってすくすくと伸び、飛び切りの笑顔を弾けさせていた。

「夏と言えばやっぱりこれでしょ」

 この時期の定番、向日葵ひまわりである。私たちの背丈に迫りそうなくらい育っており、愛嬌のある黄色の花が気持ちよさそうに光を浴びていた。

「立派ね」

 花壇の傍に立った早苗が、愛でるように優しく向日葵に触れる。その光景に私は胸を高鳴らせた。やはり早苗はずば抜けて華がある。なんてことのない仕草なのに、早苗がやるだけでドラマのワンシーンのようだ。着ている服が患者衣なのが非常に惜しい。私は脳内妄想で早苗の服装を補完した。ベタだけど夏の景色と相性抜群な、白いノースリーブワンピースとつば広の麦藁帽子。はぁ、最っ高……!

 そんな圧倒的ルックスの美少女がこちらを向く。途端、凛々しい顔が不快そうに崩れた。

「あなた今、とんでもなく気色悪い顔してるわよ」

「あ、ごめん。ちょっとトリップしてた」

 軽蔑の眼差しを向けられて我に返る。私の意識を飛ばしかけるとは。恐ろしい女だ。

「忘れてないでしょうね変態さん。あなたはまだ私を描く資格がないのよ」

「それも今日までの話だから」

「やれやれ。大した自信だわ」

 私はうそぶいてみせた。正直なところ、早苗を納得させられるかどうか不安ではある。だが彼女の被写体としてのポテンシャルを再確認させられた今、彼女を描きたいという欲求が前面に押し出されて、気持ちが前向きになりつつあった。

「よし。やるぞ」

 絶対に早苗の心を掴んでやる。私は胸にやる気をたぎららせて制作に取り掛かった。

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