第3話 ガスマスクの男

 昼間の熱気は、夜になっても漂っていた。


 二人は会計を済ませると、まるでオアシスから、あたかも灼熱の砂漠に足を踏み入れたように、レストランから通りに出た。


「花華!危ない!」


 ふいに黒のミニバンが、通り側にいた花華の目の前を、猛スピードで通過した。


「何よ!あの車!こんな細い通りを、あんな速度で走るなんて!人を引いてもいいと思って走ってるわね!完全にいかれてるわ!」


 恵麻は、いい気分で過ごした時間を、むざんに滅茶苦茶した悪党に、どうにもこうにも、むきになって腹を立てた。


 こうして見ると、世の中によく見られる、他人を嫌な気分にさせたり、傷つけたりして、自らに溜まった不快さを取り除くという手法は、もっぱら、幼児が泣くことによって、何かを要求したり、不快感を解消することに似ている。


 往々にして、世の中には、幼稚なまま大人になる人間が、一定程度いそうだが、そういう人間の無邪気さを、天真爛漫などと呼んで人間性を誉めることは、いささか一抹の不安を感じる。


 大人に成長したらしたで、何事についても裏を読むようなクセが身について、人の顔をのぞきこむように生きるのも悲しいことだが、一方で、幼稚な大人の存在は、その周囲にいる人間や社会が、いつも面倒をみなければならないから、万が一、その手が離れたときは、どうなってしまうのか。


 つまり、広げて考えてみると、幼稚さという要素、すなわち、他者に迷惑をかける形で、自分を保つというプロセスと結果は、違法なルールと結びつくと、まぎれもなく犯罪のきざしになると推測されるのだ。


 二人の心臓は、ミニバンがしでかした荒っぽい芸当によって、ふいにどぎついたが、ありがたいことに、夜空を見上げて、宝石を散りばめたような満天の星々の美しさに気づくと、たちまち落ち着きを取り戻した。


 二人は、気を取り直して、前方の小高い丘に造成された、愛宕山団地にある自宅を目指して、とぼとぼと歩き始めた。


 もっぱら、団地までの道は、駅に電車が着いたあとのわずかな時間だけ、一日の仕事を終えて帰宅する人々が、急ぎ足で通行する。


 もとはと言えば、その丘は愛宕山という神々の宿る小山だったが、方々に、ニュータウンが造成された時代、山を切り崩し、道を通して、千世帯にも及ぶ住宅団地として変貌を遂げた。


 結局のところ、神々は所を追われて天に昇り、愛宕山は人間だけが住む世界に生まれ変わったのだ。


 団地の入口からは、ずっと奥まで街路樹が等間隔に植えられ、中央には春には桜がきれいに咲く愛宕台公園があり、さらに西側には遊歩道を備えた愛宕川が流れている。


 恵麻は、道路の前方に、黒のミニバンがひっそりと停まっているのに、真っ先に気がついた。


「ほら!あのミニバン!さっきの暴走車に似てない?人が乗ってたら嫌だね。顔とか合わせたくないわ。なるべく、離れて通ろう!」


 一本道のため、よけて通るわけにもいかず、二人は、ミニバンへと、一歩一歩、近づいて行った。


 やがて、不気味なミニバンの斜め後ろに、ちょうど差し掛かった、そのときだ。


 やにわに、けたたましい一撃が二人を襲ったのである。


「ヒャーッ!」


 おどろいたことに、ミニバン後部に取り付けられた、円盤型の噴射口から、白く濁ったガスが、べらぼうな勢いで二人に噴射された。


 二人は、予期せぬ事態に、どうにもこうにも、防ぐことも、よけることもできずに、とっさに両手で顔を覆ったが、ガスは、悲鳴すら遮断するほど、こっぴどく目鼻や喉に入り、おぞましい恐怖にすくんだ二人は、奈落にでも落ちたように歩道にうずくまった。


 やがてだしぬけに、ミニバンのドアが開くと、死神のような怪奇じみたガスマスクをした男が降りてきた。


 男は、ふるえおののく二人から、肩にさげていたバックを奪い取ろうとすると、恵麻がかたくなに抵抗したため、男は手にもっていた缶スプレーを、まるで虫にふっかけるように、恵麻の動きが鈍るまで、しこたま噴射した。


 恵麻の反撃は、たちまち封じられ、今しがたまでの、二人の平穏なひと時は、見るもむざんに打ち砕かれた。


 二人は、どういうわけか、気の遠くなるような眠気に襲われると、ガスマスクの男は、自らの肩にかけたショルダーの中から、真っ黒く、ごつい能面のような装置を取り出して、手始めに恵麻の顔にすっぽりかぶせたのだ。


 装置にスイッチが入ると、男は腕時計についたタイマーで時間を測りはじめた。


 こともあろうに、その装置は、まるで粘土細工をするように、装置の内側にある恵麻の顔を作り変えているのだ。


 装置は動き出して、二分ほどたったところで自動的に停止した。


《ちっ!時間がかかり過ぎる!》                        


 男は、またぞろ、花華の顔に装置をつけ替えて、同じく時間を測った。


 やがて、装置が停止し、男が花華にかぶせた装置を取り外すと、実に奇怪なことに、二人の女の顔は全く別人の醜い顔になっており、おまけに二人とも同じ顔をしていたのである。


 謎めいた作業を終えた男は、そそくさと車に乗り込もうとしたとき、ミニバンの陰から、ちっぽけな女児が、男のガスマスクに釘付けになってのぞいているのに気がついた。


 女児は、気づかれたのが分かって、ふいに逃げ出した。


 男がすかさず捕えると、女児の顔には、無数の汚れがこびりついているように見えたが、食い入るように見ると、殴られたような無残な痣であり、おまけに、粗末な衣類から飛び出ている腕や脚にも、そこかしこに痣らしきものがある。


 男は、こうした夜に、女児が一人で出歩いていることが腑に落ちず、何かの理由で、逃げてきたのか、あるいは追い出されたのか、いずれにせよ、虐待という言葉が頭に浮かんだ。


 女児の身体には、さしずめ、たっぷり傷痕があると想像した男は、女児をつかむ力をわずかに緩めると、女児は、たちまち、男の腕をすり抜けて、逃げて行った。


「どこをほっつき回ってるんだよ!お前のおかげで大変なんだよ!」


 女児の母親らしき若い女の、わめき散らす声がするやいなや、逆らいえぬ女児は、ぼろ雑巾のように殴られ、いとも容易に道路にふっとんだ。


 どういうわけか知らないが、かっかしている女は、ぶっ続けに女児をけろうとして、ひたと自分を見つめているガスマスクの男に気がつき、ぎょっとした。


 男は、生まれて初めて、虐待というのを目の当たりにしたのだ。


《これが、虐待というやつか!最低の奴め!》


 無性に腹が立った男は、閃光のような速さで、真正面から女をけり飛ばすと、女は後ろにひっくり返って、けたたましく道路に身体を打ちつけた。


「うーっ……何だよ……お前……」


 痛みで起き上がれない女は、泣きながら男を罵った。


「ただじゃ……おかねえから……」


 今ごろになって、折よく、がたいのいい男が現れると、奇怪なガスマスクの男と、ぶざまに転がる女を見つけた。


「あんたーっ……こいつにけられたんだよ……痛いよ……」


「このマスクやろう!」

 

 夫らしい男は、ガスマスクの男に向かって、啖呵を切ると、むやみやたらに、拳を振り回した。


 ガスマスクの男は、ポケットからひょいと警棒を取り出すと、殴ってきた夫の拳を、果物をかち割るように砕いた。。


「げっ!」


 しびれるような激痛に顔をゆがめた夫を、脳天めがけて警棒で、したたか打つと、額が切れ血が滴り落ちた。


「ぐわっ!」


 じっと見ていた女児は、夫婦のそばに、けっして近寄ろうとはしなかった。


 もはやすっかり、ひどい目に遭った夫婦は、まだやられるのを恐れて女児を置いたまま、その場から逃げて行った。


 ガスマスクの男は、女児に手まねきした。


 女児は、男のガスマスクを怖がってか、身じろぎもしないので、男は、だしぬけにガスマスクを脱いで、ぱっと素顔を見せたとたん、女児は安心したのか、すごすごと近づいてきた。


 男は、女児を抱き上げて助手席に座らせると、ただちに車を発信させ、闇に消えて行ったのだった。


 二人の女は、まだ眠っている。


 思いがけず、毎晩の習慣で、ウォーキングを続けている老夫婦が通りかかると、倒れている女たちを見つけて、死体と勘違いして心臓が止まるかと思うほどおどろき、あわてふためいて救急車を呼んだ。


「人が、倒れてます!すぐ来てください!」


 そのとき、都真子は、ちょうど大鳥に付き添って、てこまい医療センターにいた。


「今、てこまいセンターか?まただ!傷害事件の発生だ!被害者は二人で、前回と同じく顔に細工をされてるようだ!被害者が、今から、向かうぞ!」


 係長の鼻田が、苦々し気に、都真子に連絡を入れて来た。


「それじゃ、スプレー犯ってことですか?三件目だわ……了解です。事情を聴いてみます!」


 都真子は、運ばれてきた二人の女の顔を見て、愕然として、肝をつぶした。


「何よ?この顔?」

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