第2話 本当の標的
「目の前で、これっぱかりも、被害者を出すわけにはいかないわ!」
《奴のミニバンには、人に吹っかけるためのスプレー噴射機を積んでいるはずだわ。一か八か、ストップをかけなきゃ》
「待って!止まってください!」
遠山が、わめいて女性を足止めした。
たちどころに、ミニバンに駆け寄った都真子は、闇が深く、誰とも見分けがつかない運転席の人間に向かって、やにわに大声で叫んだ。
「警察よ!ここで何してるの!車から……危ない!」
都真子が、ろくすっぽ、しまいまで言い終わらないうちに、ミニバンは、はじかれたように急発進したのだ。
《何だと!本当に警察が来やがった!》
都真子は、遠山に合図して、即刻、車に乗り込むと、けたたましくサイレンを鳴らして、ミニバンを追い始めた。
「あいつ!てこでも逃がさないわよ!」
都真子は、有無も言わさぬ口調で、遠山を急き立てた。
《ええと!このスイッチを押せって、言ってやがったな!》
男は、運転席の真ん中に、取り付けられた、赤く光るボタンを、とんと一突き押してみた。
おどろいたことに、たちまちミニバンから、噴射されたのは、真っ白な煙幕である。
「くそっ!スモークを張りやがったな!」
運転していた遠山は、フロントガラスが真っ白になって、前方が見えなくなったため、急いで路肩に急停止した。
「外へ出ちゃだめよ!白いから白リンなら火傷するわよ!」
都真子は、もってのほか歯噛みして、署に応援を求めた。
「すげえ!ざまあ見ろ!追ってこれないぞ!おっ!なんだ?」
男は、有頂天になって、たちまちスピードを上げたとたん、ふいにわき道から出てきたトラックにミニバンの脇腹をえぐられた。
ミニバンは、はずみでふっ飛ぶと、反対側の歩道に乗り上げ、ブロック塀を破壊して止まった。
「ちくしょう!どこ見てやがる!いてて!」
男は、たまらず、運転席から転がり出たが、頭を切り、血だらけになっていた上、おまけに足を骨折して逃げるに逃げられず、ぶざまな格好で都真子と遠山に捕まった。
男の顔を、じろじろと見た都真子は、とたんに、けげんな顔つきに変わって、険しい口調で男に言った。
「マンションの男じゃないわ!お前はいったい誰?」
とかくするうちに、救急車が到着すると、都真子が付き添いで乗り込んだ。
「煙町に住む二十歳の大鳥平夫ね!」
男が携帯していた運転免許証から分かった。
大鳥はケガをしている上、身体中を手ひどく打撲していたが、話は十分にできる様子だったため、都真子は容赦なく大鳥に話しかけた。
「なぜ、逃げたのよ?」
「ああ、運転を頼まれただけですよ。煙町の食堂で初めて会った男に、いきなりアルバイトをしないかって誘われただけですよ」
「アルバイト?」
「なに、車の運転ですよ。ミニバンを運転してショッピングセンターの前で一時間ほど停車してから帰るだけでいいと言われたんですよ。かりに警察が現れるようなことがあったら、何も言わず逃げて、追いかけられたら、運転席にあるボタンを押せば面白いことが起きるってね。まさかそのあと、トラックと事故るなんて……」
つい最近も、無職になってぶらぶらしていた大鳥は、もとはと言えば、以前の職場でも、誰かれとなく、気にいらない相手には嫌がらせをするような心の屈折した男だったから、当然のように、皆から相手にされなかった。
してみれば、そのことを根にもって、折を見て、自分を無視した世の中に鬱憤を晴らそうと思っていたところに、奇妙なバイトの話を受けたのだ。
大鳥の言ったことは、とぼけでもウソでも、なさそうに感じた都真子は、いささか背筋が凍るのを感じた。
《追っている犯人は、ただ者じゃないわ。でなきゃ、私たちの動きを読んでいて、追跡したり、張り込んでいたりしたのを気づかれていたに違いないわ》
「えっ!じゃ!こいつは囮?」
都真子が、今になって、ようやく気づいた時には、かなたの場所で二人の女性の身に危険が近づいていたのである。
この晩、ターゲットにされた小林恵麻と仕舞花華という二人の女は、笑い声をあげながら、スポーツジムから出て来た。
一年前にできた新しいスポーツジムは、二つの路線のターミナルとなる駅前にある。
二人は、ここなら通いやすいと入会を決め、もっぱら、週に一度は訪れて、ムダについた脂肪の燃焼に励み、そのくせ一方では、職場以外の人間に会うことで、無責任な話を心ゆくまで口にして、文字通り、絶好の息抜きにしていた。
恵麻がジムへ通うきっかけとなったのは、メタボと診断されたことにあった。
「そりゃ、食事を減らして、こまめに運動すれば間違いなく痩せるのは分かりきっているんだけど、それが出来ないのが人間なのよ。だから、こうしてジムに通っているのよ」
花華の理由は、運動もへったくれもなく、切実なものであった。
「もし挙式で、思いのほか細めに選んだウェディングドレスが入らなかったらどうしよう。一生に一度の晴れ舞台を台無しにしたくないわ」
「花華は効果が出ているように見えるわね!だいぶ痩せたんじゃないの!羨ましいわ!」
恵麻の、とりわけ感覚以外に何の根拠もないこの発言が、花華をより一層、不安にさせたのは、慢心こそ堕落の元凶と信じる花華の世界観を粉々に打ち砕く一言だった。
「そんなことない!そんなことない!全く変わっていないわよ!」
二人は、ジムが終わると、ダイエットのご褒美としての誇り高き儀式として、カロリーを制限してあると思われる美味なる食事をとることが習慣となっていた。
美味いものは食べ始めると、ダイエットという現実はどこへやら、目標達成へのモチベーションは著しく低下する。
当然のことながら、今日の減量はさておき、明日への希望だけが口をついて出てくるが、明日から頑張るという言葉ほど当てにならないものはないのは誰もが分かっている。
それにもかかわらず、今、この瞬間から頑張るという勇気を出すのは、さらに百万倍難しいのだ。
「でも花華が結婚すると、こうして来ることはできなくなるわね」
恵麻は、しみじみとした口調で花華に言った。
「そんなこと考えてるわけ。大丈夫よ。未来の旦那は理解がある人だからバンバン行くわよ。恵麻こそ結婚したら家から出ないんじゃないの」
「まさか、そのくらいの自由は絶対キープするわよ。それに結婚しても仕事は続けるつもりよ。余裕のある生活したいしね」
誰にとっても変化はチャンスでもありリスクでもある。
心配のしすぎはチャンスを逸失し、楽観的すぎればリスクに潰しをくらう。
いずれにせよ、変化や選択の前に、何よりいけないのは、先のことはどうにかなると漫然と考え、準備を怠ることが、いちばんのリスクになるに違いない。
とは言うものの、結果が出てから考えるのが、日本人の、いや、どこの民族でも考えられる特徴であるから、要するにそれは、くれぐれも人類の人類たる由縁なのだ。
予想と反した結論を突きつけられて、むしろ後悔も何もしないのは、あくまでも聖人君子か仙人の類である。
後悔するから人間なのに、悔いの無い様に頑張ってと無理難題を押し付けるのも人間だ。
人間が、何もかも理解して、この世界、自分の人生を生き抜くことは、あべこべに大変なことになる。
人生というのは、知れば知るほど、まるで対岸にある幸福の国に渡るために災害、貧困、病気、孤独などのあらゆる不幸で満たされた川の上を、か細く張られた一本のロープを伝わって綱渡りをやって見せているようなもので、足を踏み外せばすぐに不幸という川に落ちるのだ。
おまけに、自分の次に綱渡りをする者が、良くも悪くも、つかまったロープを揺らしている場合もあるのだから、自分が失敗しなくても他者と一緒に落ちることもあるのが人生だ。
かりに、人生というか細いロープを、無事に渡りきって自分だけが幸せの国に到着しても、後から次々と渡って来る愛する者たちを見て、足を踏み外して落ちやしないかと不安にさいなまれるのも不幸の一つである。
つくづく、人が一生を全うするのは大変なことである。
「そろそろ、時間ね」
飲み物やスイーツが取り放題のバイキングは、時間制限があり、恵麻が時計を見て時間が来たのに気がついた。
「時間制限があって良かったわ。食べたいものは全部取ったから心残りはないわ。もとを取ろうなんて思わないけどね。まだいけそうだけど、腹八分目っていうからね」
しかし、この後、二人が恐怖のどん底に叩き落とされるのは、誰にも想像がつかないことであった。
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