第8話

 涙がようやく止まると、胸元から顔をあげる。

 すると母は頭を低くする。互いの顔が至近距離で向かい合う。

 母の髪の毛が垂れて、私の髪の毛に入り込んでくる。絡み合った髪は、互いの境父線をぼやけさせる。母と肉体が一つになったみたいだ。

 そう錯覚してしまうのは、彼女と一つだった時期を覚えてるからかもしれない。母が妊娠していて、彼女の子宮の中に私がいた記憶を、私の肉体が覚えてるからかもしれない。

 私は、胸がしめつけられる思いで、母をじっと見つめる。

 

「もう一生会えないと思ってた」

「寂しい思いさせちゃったね……」


 母は申し訳なさそうな顔をする。


「うん、すごく寂しかった。お父さんはいまでもあなたのことをひきづってる。ちょっと前までは、まともに漫画が描けなかったんだよ。私と共同で漫画を作るようになってからは、また描けるようになったんだけど……」


 母が深刻そうに私の言葉を受け止める。


「そんな……。じゃあ、漫画の中に私がいたのは……」

「私達がお母さんのことを、忘れられなかったからだよ」

「ツッ……。ごめん……ごめんね。勝手に死んじゃって」

「謝らないでよ。病気で死んだんだもん。仕方ないよ」


 私は、母を死に至らせた病気のことを詳しく話す。


「やっぱり、病気だったんだ……。はぁー、なんでそれで死んじゃうかな私」


 母は額に手を当て、深くため息をつく。


「大事な夫と、まだ育ち盛りだった娘を残して、死んじゃうとか、最低だよ私。妻失格。母親失格。人間失格だよ」


 かなり落ち込んでいる。

 責任をよほど感じているのだろう。

 ここは私が、なんとかしないと。


「だから病気だから仕方ないって……」

「うんうん、私が自分の身体を大事にしなかったせい。定期的に身体の状況を病院で、チェックしてもらうべきだった。仕事が忙しくても、ちゃんとそうするべきだった。漫画家なんて、特に早死にするんだし。なんで自分は大丈夫って思っちゃったかなぁ……」

「やめてよ。そんなに自分を責めないでよ」

「だって……」

「もう終わったことだよ。確かにお母さんがいなくて寂しかったよ。でもこうして会えた。今はそれだけで満足。悲しかった事が全部帳消しになるくらいね。……だからさ、ここは暗くなるシーンじゃないんだよ?」


 唐突に私は、母の頬に両手を添える。母が不思議そうに眉を潜めると、頬を強く引っ張る。


「ちょっ……朝凪!?」


 驚いた母の口元にぎこちない笑みができあがる。その笑みに、私は微笑みで返す。


「明るく笑い合うシーンなんだ。そうでしょ?」

「……」


 母はハッとした様子で目をパチパチとさせる。

 私が頬から手を離すと、母は何かを深くかみしめるように、私を見つめる。

 そして、ゆっくりと口元をつりあげる。


「そうだね、あなたの言う通りだ」


 陰りのない言葉。どうやら、いつもの母に戻ったようだ。良かった。

 ほっと息をはき、安堵してると、母が私の頭をまた撫でてくる。

 彼女は感慨深そうにこう言う。


「すっかり成長したね、朝凪。昔は、私にベッタリで、私とちょっとでも離れると、すぐ泣き出して、大変だったのに」

「い、いつの話してるの。もう……」


 私は所在なさげに、髪の毛を触る。

 視線が泳いでしまう。


「ねぇ、海が漫画を描けるようになったのは、あなたのおかげなんでしょ? あなたから、一緒に漫画を作ろうって誘ったんでしょ」 

「えっ? なんで、知ってるの?」


 まさにその通りなので、私は驚いた声をあげる。

 まるで、実際に見てきたかのように、話す。

 この人はエスパーなのか?


「あなたが今見せてくれた優しさを見て、自然とそう思ったの。私と同じように、海も助けられたんじゃないかって。暗い場所から、あなたが手を差しのべて、明るい場所へ連れ出してくれたんじゃないかって……」

「……」


 私の沈黙を正解と受け取ったのか、母は満足した様子で言葉を続ける。


「本当は私がしなきゃいけないことなのに、あなたは父の支えになってくれた。ありがとう。あなたの優しさは私の誇りだよ。あなたの描いたキャラクターにもその優しさがこめられていた。それを見て、私は自分を取り戻せた」

「お母さん……」


 慈しむような眼差しを向けてくる。

 母の真摯な言葉に当てられて、私は素直な心で母を見つめる。

 そして、穏やかな笑みを浮かべる。


「お母さんがくれた優しさだよ。私の話をいつも、真剣に聞いてくれた。私のためにいつも、おいしいご飯を作ってくれた。私にいつも笑いかけてくれた。あなたにいつも優しくされて、私は幸せだった。だから、自然と私の心に、お母さんの優しさが息づいてるんだよ」


 感謝の念を言葉に込める。そして、一泊間を置くと、こう続けた。


「あなたが私の母親で良かった。心の底からそう思うよ」


 私の思いを聞いた母は、目を大きく見開く。その後、静かに身体を震わせて、うつむく。

 それからしばらくして、顔をあげると、潤んだ瞳で私を見る。


「私も……良かったよ。あなたが私の娘で……本当に良かった」


 母もどうやら、同じ思いのようだ。私はすごく嬉しくなる。

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