水鉄砲

 夜墨は目をぱちぱちちかちかさせながら、私を見下ろしていた。鼻を舐めてあくびをする。飽き飽きしたふうだけど、見下ろしたまま動く気はないみたいだった。

 これは現実だろうか。それともまだなにか見せられている? それともそれとも、私が現実だと思っていたものが映像だったのかも?

 生臭いにおい、夜墨の顔が近づいてくる。しめっぽくて、生暖かくて、冷たい。ちょっと鼻呼吸が苦しい。

 顔を舐められている。

 左手で夜墨を撫でると、そうじゃないとばかりに避けられた。なに、起こしてくれたんじゃなかったの。

「あ、ごはん? お腹すいた?」

 ん。夜墨が半目で返事をする。そっかそっか今日まだご飯食べてないもんね。ご飯食べずに出かけたのは夜墨だけど。追いかけてきたのは私のほうだけどね?

 ポケットからビニール袋に入れたフードを出すと、夜墨はビニール袋を引っ張って急かした。引っ張って開いた穴からこぼれたフードを勝手にぽりぽり食べ始める。手のひらに出して顔を埋める夜墨を撫でていると、この子も私もここにいるんだと思える。目を上げると、赤茶けた風景が見えた。バイザーをかけて見ると、バイザーの青味越しにきらきらした風景が見える。

 なんだろう、これは。

 私はいったいなにを見ているんだろう。

「夢かなあ、やっちゃん」

 猫は温かくて、この日差しの下では熱いくらいだ。夜墨はご飯に夢中で目もくれない。尻尾がぱたぱた地面を打っていた。

 あそこには何があるんだろう。バイザーの中の私が死んでしまったあの場所。たぶん、地図を見たら、どこだかわかる、と思う。でもここは電波が入らない。バイザーに地図が表示されなくて、夜墨の現在地がわからないからバイザーを脱いだはずだ。

 試しにスイッチを押してみる。画面は変わらない。バイザーの外の赤茶けた風景と、バイザーの形に切り取られたような青い風景。見慣れるとそんなにびっくりしなくなる。バイザー無しで見たものを触ると見たまんまの感触がするし、バイザー有りで見たものを触っても見たまんまの感触がする。

「なんだろ、バイザー越しなら別次元を知覚できるとか?」

 ぶ。腕の中で、夜墨が笑ったような気がした。

 ひとまず、電波が入るところまで戻ることにした。

 バイザーが無い状態で見れるこの状況がなんなのかわからない。でも、これまでこの街で生活してきたうちで、一番広く感じた。知っている地形ではあるんだけど、知らない場所みたいで新鮮だ。

 アスファルトはひび割れてでこぼこだし、路肩や道の真ん中にごみ収集車やら相乗りタクシーやらが傾いて停まっている。誰も乗っていないし、中はガタガタのボロボロだった。

「みんなどうやって生活してるんだろ」

 でもバイザーをかざして見れば道はきれいだしごみ収集車もタクシーもいない。やっぱり別次元だ。

 回復した電波で地図を見ながら、例の場所を目指す。住宅地の端の緑地だった。だいぶ距離があったはずだけど、着いてみるとそんなに遠くには感じなかった。

 映像で見たよりももじゃもじゃとした枝葉で暗い。入口のフェンスの前に大きなぬかるみがあった。

 ここを通るのは嫌だな。感電した様子を思い出す。

 回り込めないかな。見上げると、変電設備の周りをフェンスがぐるっと囲っている。バイザーを外して見てみたら、どこかに穴があるかもしれない。

 どきどきする。目の前が全く変わってしまったらどうしよう。

 バイザーを少しずらして見る。もっともっさりした葉っぱたち。その向こうに建物の角が見えた。バイザー越しだと見えない。

「な、なんだろうね、やっちゃん」

 腕の中の猫をぎゅっとすると、すごく唸られた。ばったばった暴れて、抑えきれずに逃げられてしまう。

「やっちゃん!」

 夜墨は一目散に変電設備の横を通り過ぎ、バイザー無しでしか見えない建物へ向かっていった。思わず追いかける。灰色で四角い建物だ。街の建物より簡単で雑な感じがする。でも、バイザーなしで見たゴミ収集車なんかたちよりはずっと新しいみたいだった。

 ドアを押すと、開いた。

 廊下の幅が普通の倍くらいある。やけに白くて明るい。

 なにかの気配がする。人みたいだけど人じゃない。話し声とか息づかいが感じられなかった。なんとなく猫に近い。野良化した猫が集まっているのだろうか。

 それにしては、臭くない。臭いといったら臭いんだけど。獣のにおいじゃない。腐ったようなにおい。どぶのにおいにツンとしたにおいが混ざっている。

 嗅いだことのあるにおいだ。

 いつ、どこで?

 カショッ、カショッ。一台のロボットが廊下の先を横切った。街じゅうに配置されている汎用ロボットと同じ姿形だった。球状の頭、カメラアイ、腕、太い胴体、キャタピラの脚。全高は私の胸ほどだ。

 ロボットは私を一瞥したけど、すっと去ってしまった。住人が入っていい施設なのかもしれない。ごみ処理場とか? それがしっくりくるにおいだ。

「やっちゃーん」

 声を落として呼んでみる。当然返事はない。どうしよう。奥かな。とにかく廊下を奥まで行かないことには、ほかにドアらしいものもない。怒られたら嫌だな。なんて言おう。猫を探していて?

 廊下を進むと、さっき横切って行ったロボットが待ち構えていた。

「おかえりなさい」

 平坦な電子音声に言われてびっくりする。

「あ、ありがとう……ございます……?」

 答えてから違ったなと思うけど、ロボットは私を見上げ、するっと背を向けた。ちょっと進んで止まり振り返る。はい。ついていきます。

「ここは都市維持用生体ユニットの工場です。生体でのみメンテナンス可能、または適切であると判断された電気設備の管理維持を目的とし行動する生体ユニットの研究製造管理を行っております」

 なにやらするすると説明しているけど、こんなにペラペラ説明されても耳が滑る。

「え? え、なんですか?」

「生体ユニットは、街が最適であると判断した住人の記憶を使用しています」

「記憶」

「標本とした記憶は十代女性のもので、知識に不足はあるものの、街への好意と意欲が高いことを加味し決定されました。この記憶はある停電復旧時に終わってしまうが非常に有用と判断されています」

 バイザーで見た。あれ。あれだ。

「どの生体ユニットも、稼働直後から黒猫を知覚するようです。我々には知覚の定まらない黒猫です」

 バイザーで見たあれに出てきたのも黒猫だった。夜墨そのまんまの黒猫。

「生体ユニットはみな、途中で活動を停止してしまう。我々はその原因を黒猫だと考えています」

「やっちゃんが?」

「あなたもあの黒猫を追ってここまで来た。我々は、あなたはこれまでの個体とは異なると希望している」

「……私が?」

 これまでの個体とは違う? これまでの個体。これまでの。個体。

「黒猫と遭遇した場合にはこの水鉄砲で対処するように」

 ロボットがいつの間にか、ピストル型の水鉄砲を手にしていた。透明で黄緑色の、中が空洞でほとんどタンクになっている水鉄砲。引き金だけが黄色い。

 するすると受け取っていた。ずっしりと重い。

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たそがれのやぼく 木村凌和 @r_shinogu

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