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 暗視照準眼鏡ノクトスコープ特有の緑色に染まった視界の中、複雑に絡み合う影の一部にほんのわずかに動きがあった。あまりに緩慢な動きだった。凝視していても見逃してしまいそうなほどだ。

 偽装した狙撃手は時に1分かけて1センチ身体をずらす。移動にそれほど常軌を逸した緩慢さが要求される。肉眼で捉えられるのを困難にさせるためだ。

 しかもヴェラが暗視照準眼鏡ノクトスコープで見ているのは、緑色の複雑な影が交錯するモザイク模様である。理屈で言えば、20分で20センチ以上は移動していることになるが、刹那のモザイクを記憶しておくのは不可能。それを1分前、3分前、20分前と脳裏で比較して動きを探知することもできない。

 そこに敵が潜んでいるはずという確信を持ち、じっと凝視している内に影が動く瞬間を捉えられる。後は狙撃手としての経験が意味のない影が相互に結びつけ、頭の中に敵の像を浮かび上がらせるのだ。

 見えた。

 敵はカムフラージュネットを被り、身体の輪郭を完全に消していた。だが、ヴェラの眼はネットさえ透かして這いつくばる敵の姿を捉えていた。頭。肩。両腕。ライフル。いったん姿が見てしまえば、形状を識別するのに時間はかからない。

 見つめ続けていることにも危険はあった。再び影が溶け合い、混沌として無意味な染みの中に潜り込んでしまう恐れがある。

 親指で安全装置を外し、ドットで示されている照準環を標的に載せた。銃把の後ろに回した親指を立て、トリガーに人差し指の腹を置いた。意識して呼吸の速度を落とし、時間をかけて吸い、時間をかけて吐くようにする。身体の内側に残るのは拍動と血流だけだ。人差し指にわずかに力を込め、トリガーの遊びを消す。

 はっとした。照準環を載せている影の左横でわずかな動きがあった。

 左横に散在するいくつもの影同士が瞬時に結びつき、また1つ敵の姿を形成する。トランシーバーから流れてきたギュイの声がひどく狼狽していた理由がようやく理解できた。

 最初、敵の狙撃手らしき影の左横に動く影が見えた時、観測手だと考えた。ヴェラにギュイが付いているように、狙撃手は観測手とペアで行動することが多い。

 ヴェラは思わず息を呑んだ。左横の影も偽装ネットを被り、ライフルを構えていた。ヴェラの眼は突き出された銃身が長大であることをちゃんと見ていた。決して自動小銃のシルエットではない。

《スナイパーが2人?》

 観測手も狙撃手であることが多い。むしろ狙撃手としての経験を積んだ上でないと優秀な狙撃手になれないと言える。優れた狙撃手としての技量に経験が加わることによって初めて作戦を指揮し、遂行できる観測手となれる。

 観測手が移動時のナビゲーション、観察、司令部や部隊との連絡、掩護射撃など全てを受け持っている。優れた観測手とともに行動することで、狙撃手は敵を撃つことのみ神経を集中できる。ギュイの声が耳を打つ。

『リムジンが来た。時間通りだ』

 その声は落ち着きを取り戻していた。

 ヴェラは再びゆっくりと呼吸することに意識を集中する。敵の観測手が狙撃銃を構えているとすれば、狙っているのはたった1つ―敵の対抗狙撃手カウンタースナイパー、すなわちヴェラしかない。しかも2人が同じ姿形をすることが1つの偽装になっていた。

 右か。左か。

 心臓の鼓動が早まる。無理に抑えようとはしなかった。生理的な肉体反応を抑圧すれば、新たなストレスを生むだけである。

 いずれにせよ敵は先に撃たざるを得ない。ヴェラは胸の裡で呟いた。

《軍師》を狙っているのは《レディ・シューター》。観測手がヴェラを狙っていても、あくまでバックアップでしかない。

 銃火が閃いた瞬間、ヴェラは撃つ。

《レディ・シューター》と相棒がどれほど息を合わせて同時に発射したとしても、わずかな時間差が生じる。銃火を見逃さない自信はある。彼我の距離は約700メートル。その点を考慮すれば、たとえ2番目のライフルが火を吹いてもヴェラにはトリガーを絞り落とすだけの余裕がある。

 敵はヴェラが撃った直後、間違いなく自分の脳髄を撃ち抜くだろう。

《ミーシャ、母さん、待っててね―》

 ヴェラは死を覚悟した。心臓はいつもの落ち着きを取り戻していた。

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