32. 開け。

「わたしはもう元気! あのね、よく聞いて。お福、寝込んでいるときに、おばあさまやその取り巻きの人たちが話しているのを聞いちゃったの!」


 非常に興奮した様子のお福は、わたしに相槌を打つ程度の時間すら許さず話し続けた。


「おばあさまが『例の本の回収は進んでいるの?』って取り巻きに聞いたの。そうしたら『いいえ、まだ題名の特定すら出来ておりません』って答えてて」

「例の本? 話がよく見えないんだけど」

「ここからが大事なの! おばあさまがおっきいため息ついてね、『はあ、怒りを通り越してもはや呆れちゃうわね。二つの世界を繋ぐ鍵を小説に書いて出版するなんて』って。さらに取り巻きの人は『作者は一体誰なんでしょう。あの言葉は水証会幹部にしか伝わっていないのに……わたしも知らないんですよ!?』って文句言ってて、おばあさまも『それもあんな低俗な本にされるとは。わたしたちが鍵になる言葉が書かれた書物をすべて焼いた意味がなくなってしまうじゃないの』って文句言ってた」


 お福の話には相変わらず無駄が多く、話の本質が分かりづらい。わたしが脳内で話を整理している間に、紫水がすべてを理解したようで、「なんだって!?」とひとり大きな声を上げた。


「な、なに? 教えてよ」

「本に、“陽の側”と“月の側”を行き来するための鍵が書かれているんだよ! 彼女の言う低俗な本っていうのがどの程度低俗なものなのかは分からないけど、僕たちでも手に入る本なのかもしれない」

「おばあさまは専門書以外は全部低俗だって思ってる。でも特にファンタジーには否定的かも。あんなありもしない物語を読む時間があるなら、現実のためになる勉強をしなさい、ってよく言ってる」

「重大なことが書かれているとは思えない本に紛れ込んでるのは確かだろうな。作者は水証会を裏切って鍵を記したんだ。すぐにばれちゃあ意味がねえ。少なくとも俺はそう考える」


 二つの世界を繋ぐ鍵が記された本。ファンタジー嫌いのおばあさまが低俗だと罵る本。一目では重大な本だとは思われない本。

 これらのヒントが、ぱちりと音を立ててパズルのように組み合わさっていく。次第に全体像が見えてきて、鼓動が速くなる。


 視線が自然と店内の本棚に移り、その中の一冊に釘付けになる。足元さえ見ずじっと本を見つめたまま立ち上がり本棚に近付く。

 ゆっくりとした足取りで、それでいてどこか上の空な状態で歩くわたしを、紫水、黒曜、お福の三人は無言で見ていた。あまりの戸惑いに声が出ない様子だった。


 わたしは本棚の前に来ると、腕を真っ直ぐ伸ばして一冊の本の背表紙に指を掛けた。指先は小刻みに震えている。

 指を曲げて本を傾け、手のひら全体で本を包み込むように持つ。引っ張り出された本の、つや消しが施されたハードカバーには、金色でこう印字されている。


 月日はメグリ。


 “月の側”に来て間もない頃、わたしが何気なく手に取ったファンタジー小説だ。


 “陽の側”に転移した狐族のめぐるが、唯一の友人とともに元の側に戻るための暗号を探す物語であり、彼らが暗号を見つけた、というところまで読んだ記憶がある。

 そういえばあの日はお福が店を訪ねてきて、本を閉じたのだった。忙しい日々が続き、物語が途中だったことなどすっかり忘れていた。


 紫水は、本の表紙が見えた途端に勢い良く立ち上がり、「ああっ⁉︎」と素っ頓狂な声を上げた。


「その小説、ふらっと来店したお客さまが置いて行ったんだよ! 忘れ物かと思ってお客さまを追って声を掛けたんだけど、店主が持っていてくださいの一点張りで」

「そのお客さんはどんな方だったの?」

「食べるとき以外は布で口元を覆っていて、常に俯いていたから顔ははっきり覚えていないんだ。人型で、黒髪の短髪だった。目力が強くて好青年って印象ではあったんだけど」

「うーん、そんな人水証会にいたかなあ」

「ま、髪なんてどうにでもなるからな。それだけでは特定は無理だろう」


 けれどもひとつ、確かなのは、『月日はメグリ』は本棚に並ぶ本の中で少々異質であることだ。その客はなにかを考えて本を置いていったことは間違いない。


「続きを、読んでみる」


 見覚えのあるページを適当にめくり、めぐるが元の世界に戻る儀式を行うシーンまで飛ばす。そこから斜め読みをするわたしを、三人は固唾を呑んで見守っていた。


 ……世界を繋ぐと言われている川の前に立っためぐるは、隣に立つ友人と目を合わせた。彼らはあまりの緊張で、いつの間にか手を繋いでいる。

 そして頷きを交わすと、二人は同時に息を肺の奥深くまで吸って、こう叫んだ。


「開け、小麦粉!」


 すると、川が渦を巻き始め、渦の中心は川底が見えるほどくぼんだ。

 めぐるたちは戸惑いのあまり声を発することも出来ず、ただ渦が次第に大きくなるのを見ていた。そのうちめぐるの身体だけが川に引きずり込まれていく。

 めぐるは思わず、握る手に力が入る。


「怖い! どうしよう、溺れちゃうよ!」

「馬鹿、めぐる、離せ! オレが川に入ったらどうなるかわかんねえんだぞ!」

「でも、やだ、怖い!」

「なに言ってんだ、これはお前の願いだろ?」


 手が振り払われると、めぐるはあっという間に首まで川に浸かってしまう。

 溺れる、溺れる。その一心でばたばたと暴れるめぐるだったが、辛うじて友人の最後の言葉を聞くことが出来た。


「めぐる! 向こうでも元気でな! また会おうな!」


 涙が溢れてきた。しかし川に飲まれて顔を覆う水が涙なのか川なのかは判別がつかない。

 ごぼごぼと泡の音しか発することが出来ず、めぐるは言葉を返すことは叶わぬまま、見慣れた“月の側”へと戻ってきた。


 ……世界に戻るシーンを読み終えたわたしは、思わずつぶやいた。


「開け、小麦粉」


 三人が同時に、「はあ?」と言いたげな表情をしたのが分かった。

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