31. 風を吹かせるもの。

 三方の壁がすべて本棚になっており、床にも段ボール箱や書籍が積み上がっている。古びたものがあたり一面に広がるこの部屋は、恐らく物置だ。それも価値のありそうなもので満ちた物置だ。

 足を踏み入れることはほとんどないようで、少々埃臭さが残っている。


「わたしも夫も骨董品やお宝を旅行先で買って来るのが趣味だったの。でもお互い買って満足してしまって、ほとんど管理は出来ていなかったのだけれど。彼が亡くなった折に、この部屋の整理をしようと思い立って少しずつ進めていて、こんなものを見つけたの」


 入ってすぐ左手にある本棚に、本ではないなにかが刺さっていた。横の本を左手で退けつつ引っ張り出したそれは、扇子だ。

 骨は深い茶色の木で出来ていて、年輪が黒くはっきり見える。開いてみると古びた紙の中心にはこちらを睨む狐、右側には狐から逃げ惑う人間が描かれている。横に伸びた狐の尻尾が人間の腰に巻き付き、身動きを取れなくしている様子が生々しい。


「なんだか恐ろしい絵ですね。ある時代に狐族が悪者に描かれている絵が流行したおかげで、僕たち狐族の立場が悪くなったことがあると聞いたことがあります」

「まさにその時代の絵ね。わたしも初めは気味の悪い絵だと思ったけれど、骨董店の店主がこう言ったの。『この扇子は、“陽の側”から来た人間が持っているべきなんだ、って僕の祖父の代から言われているんです。どうやらいわくつきの扇子らしくて』って」


 縞井はわたしに視線を遣ると、


「あなた、例の“陽の側”から来た人間なんでしょう?」


 と言って二歩近付いてきた。例の人間だと話した記憶はないのにどうして、と尋ねたい気持ちを汲み取って彼女は言葉を続ける。


「なんとなく分かりますよ。たくさんの人と出会ったという自負はあるけれど、あなたのような雰囲気の方とはお会いしたことないもの」

「まさに経験はものを言う、ですね」

「おかげさまでこの扇子をお渡しすることが出来るのだから、経験には感謝しなくちゃいけないわね。伊達に長く生きてきたわけじゃないわ」


 そしてわたしに扇子を差し出し、微笑んだ。


「いえ、頂くわけには……」

「購入したときからそのつもりだったし、それがあの店主との約束なの。先代も含めた店主たちの願いを叶えさせてちょうだい。それに、埃っぽい物置にいるよりもあなたに使ってもらったほうが扇子も喜ぶと思うのよ」


 ぱちんと音を立てて扇子が閉じられる。ぐいと押し出されたそれを、わたしは手に取った。

 扇子は思っていたよりも重くて手触りが良かった。


「ありがとうございます! 大事にします」


 扇子を握り締めたまま深く礼をする。顔を上げたとき見えた縞井の表情は、非常に満足気だった。


 今度は冷めるラーメンもなく、玄関まで送ってくれた。


「またラーメン食べに来てください!」


 わたしが控えめに手を振りながらそう言うと、縞井は大きく頷いた。彼女とはまた近く会うことになりそうだ。


 帰り道、わたしと紫水は交互に扇子を持った。開いたり閉じたり、表を見たり裏を見たり、まさしく“凝視”した。けれどもなぜいわくつきと言われているのか分からなかった。


「ただ持っていると不幸になる扇子とかなんかで、そういうのは人間に押し付けておけ! って考えだったって可能性ない?」

「ええー、どうだろう。よくそんな突飛な発想が出来るね」

「都市伝説特集みたいのを観るのが好きだったからで……」


 紫水は意味が分かりかねて首を傾げる。

 彼をよそに、見えてきた『銘杏』の入り口に誰かが立っているのを見て取ると、わたしは声を上げた。


「誰か待ってるよ。お客さん、かな」

「今日は休みって札を出しておいたんだけど。って、あれ黒曜じゃないかい?」

「言われてみればそうだ! わたしたちをずっと待ってたのかな?」


 駆け寄って大きく手を振ると、黒曜は呆れたようにではあるがふっと笑った。彼が悪意からではない笑顔を見せるのは珍しいので、思わずどきりとする。


「走るなよ、俺は別にいなくならねえから」

「どうして待ってたの? なにかあった?」

「なにかあった? ってお前……お前が心配で来たんだろ。全然ぴんぴんしてるみてえだけどな」


 言われて気が付いた。もう今朝のような暗澹とした気持ちは跡形もなく消えている。

 きっと縞井の素敵な心に触れて、さらに新たな希望になりそうな扇子を手に入れたからだろう。


「とりあえず中に入ろうか」


 という紫水の促す声でわたしたちはカウンターに座った。わたしを挟んで二人が座る配置で、カウンターに置いた扇子を、皆が揃ってじっと見た。


「黒曜、この扇子について知らない?」


 考え込んでいた黒曜が、なにかを思い出したようにはっとした表情を見せる。身を乗り出して彼の次の言葉を待つ。


「そういえば親父が言ってた。“陽の側”と“月の側”を繋ぐのは、風を吹かせるものと鍵だって。風を通した状態で鍵を使えば、二つの世界は繋がるとも言ってた。風を吹かせるって比喩だと思っていたんだが、本当にその名の通りだったんだな」

「鍵って?」

「見当も付かないな。鍵穴に挿すような鍵なのか、はたまたキーワードって意味で言葉なのかすら分からない」


 また皆で扇子を見つめるだけの時間が訪れた。見ていても鍵についてはなにも分からないのだが、皆がそれぞれ頭を捻って考え込んでいた。


 そのとき扉ががちゃりと勢い良く開いた。どうやら揃いも揃って他のことで頭がいっぱいだったらしく、鍵を閉め忘れていた。


「申し訳ございません、本日の営業は」

「きよのちゃん! 良いことを聞いたの!」

「お福ちゃん⁉︎ もう熱は大丈夫なの? お見舞いにも行けなくて……」


 わたしたちの言葉を無視して、いつもの紅色の浴衣を纏ったお福がずんずんとこちらに近付いてくる。そしてわたしの肩を力強く掴み、叫んだ。


「わたしはもう元気! あのね、よく聞いて。お福、寝込んでいるときに、おばあさまやその取り巻きの人たちが話しているのを聞いちゃったの!」

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