28. 時間さえ経てば。

 入念な検査の結果、黒曜になんの異常もなく、三人で『銘杏』に帰ることになった。


「普通なら患者はオレが送っていくんだが」

「そんなんいらねえよ。検査もクリアだろ?」

「……とまあ本人がこんなチョウシだしな。一応紫水ときよの、ついてやってくれ」


 すっかり夜が更けた街並みを、提灯の色とりどりの光が煌々と照らす。一歩を踏み出すたびに、ご機嫌な音階が聴こえてきそうだ。


 心が弾む景色が眼前に広がっているというのに、わたしたちは下ばかり向いて歩いていた。わたしは新たな支柱を探していたが、さすがに耐えかねて、気になっていたことを尋ねる。


「そういえば黒曜はどうしてあんな場所にいたの?」

「あー、お前がひとりで出掛けたって聞いたから、今度はどんな面白いことに巻き込まれているのか気になってな。本当にあったのはお笑いぐさにする気だけで、助ける気なんてさらさらなかったんだ。だがあんな化物に襲われてるのを見て放っておくほど俺は薄情じゃねえ。まあお前の不運さには笑わせてもらったがな」


 助ける気が本当に一ミリもなかったことは、彼の言い方から分かる。とことん性格が悪い。


「今度は、ってなに」


 紫水が口を挟み、わたしはしまったと思った。黒曜と出会ったとき、“水証会”に追われていたことは、紫水には秘密にしていたのだった。

 だが黒曜が話を続ける。


「お前の不運な姿を見ながら甘味でも食おうと思って、たい焼きまで買ってたんだぜ」

「ああ、あのとき投げ捨ててた袋、たい焼きが入ってたんだ」

「黒曜は人の不幸をつまみにたい焼きを食うようなやつなんだよね。知ってたけど、改めて口にすると最悪だなあ」

「穏やかに言われるとさすがの俺でも刺さるな」


 あはは、とわたしが笑うと、二人もつられたように笑みを浮かべた。紫水は目を細めてにっこり笑い、黒曜は目を伏せて唇の端を少し上げて笑う。


「俺のナイスプレーのおかげで話を逸らせたな」


 黒曜がわたしに耳打ちする。ありがとう、とこちらも耳打ちで応じる。

 くすくすと笑い合うわたしたちに向けられる、紫水の湿っぽい視線に、黒曜は優越感に満ちた表情を返した。そしてわたしの首に腕を回し、後ろから抱きつくような体勢になる。


「俺はお前より先にきよのを手に入れるからな。ま、現にきよのは俺の腕の中にいるんだが」

「そ、それは黒曜が勝手に腕の中に入れたんでしょ! というかなに吹っ切れて告白してるんだよ!」

「ぐだぐだ悩んでんのは俺らしくねえ、そんなんまるで紫水じゃねえか。初めはお前のほうが好かれやすい、だから俺はゆっくりやってるわけにはいかねえんだ。ああ、一応言っておくが、時間さえ経てば大体の女は俺に落ちる。焦りなんてないからな?」


 がやがやと言い合う二人の声を聞いて笑っていたが、不意に心臓に氷を当てられたような心地がした。


 時間さえ経てば。


 時間が経ったときのことを、思い浮かべてみる。これまでは慣れ親しんだあの家で、父と祖母とこたつに入る程度の、日常の一コマを想像していた。けれども今はぼんやりとしていて何も見えない。


 黒曜の腕を振りほどこうとする。初めはぐいと引き寄せようとした彼だったが、わたしの雰囲気の異変に気が付いたのか、脱力するように解放した。


「様子が変だぞ、どうしたんだ?」

「わたしは、二人とは違う世界で生きていくの! ……ってずっと思ってた。今までなら笑って、自信満々で、そう言い返してた。でももうなんて言っていいか分からないよ……」

「ごめん。可能性がある段階ですぐに話すべきだった。きよのちゃんの気持ちを壊しちゃいけないと思っていたんだけど……いや、なんでもない。言い訳をして申し訳ない」


 言葉を返す気力もなく、三人揃って押し黙る。街の煌めきが、わたしたちをより世界から切り離す。


 店に着いても会話はなく、黒曜は居心地悪そうに、


「今日こそたい焼きを食って帰るとするか」


 とつぶやいて帰っていった。

 後から思うと、泊まっていくなどとは言わなかったことは、彼なりの気遣いなのかもしれない。


 しんとした、出汁や醤油の香りがほんのり漂う店内。二人きりになったわたしと紫水は、自然と自分たちの部屋に籠った。


 二時間ほど経って、紫水が一番風呂を譲りにきた。ありがとうと答えながら、言い忘れていたことを思い出す。


「そうだ。縞井さん、器の回収希望日は明後日だって」


 言いながら部屋の掛け時計を見ると、短針はもう右に傾いていた。


「あー、日付的には明日かな」

「わかった。行ってくれてありがとうね、危ない目に遭わせてごめんね」


 声に出して返答する元気もなくて、静かに頷きだけを返す。

 紫水は唇をきゅっと引き結び、「おやすみ」と小さく言って、部屋を出て行った。

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