29. 閉じこもりたい。
しばらく眠れない時を過ごし、ようやく眠れてもまたすぐに目が覚めてしまった。障子が薄ぼんやりと明かりを透かしている。まだ四時くらいだろう。
一階では水が流れる音や、金属同士が触れ合う音が聞こえる。ラーメンの仕込みが始まるのは、ほとんどの人が寝ているくらい早い時間だ。
部屋にいても仕方がないし、一階に降りようかな。そんな考えもよぎったものの実際に身体が動くことはなかった。
そうこうしているうちにまた眠ってしまい、次に目が覚めたときには強い日射しが障子越しに見えた。午後二時くらいだろう。
下からは客の賑わう音が聞こえてきて、ざわめきの中には黒曜の低い声も混ざっている。
もしかしたらわたしを心配して来てくれたのかも、と自惚れたことを考える。
昼時のピークは過ぎたと言えど、この時間は昼営業が終了する直前で、駆け込む客も多い。
彼ひとりで店を回すのは大変だろうと思い、とりあえず起き上がってはみたが、どうにも階段を降りる気にならない。客の前で笑顔を作れる自信がなかったし、なにより、もう『銘杏』で働く意味を見失ったからだ。
もし仮に“陽の側”に帰るヒントが得られたとしても、その方法を実行する日は来ない。
窓際にある机の端に置いたスマホを手に取る。とっくに充電が切れて電池が入らないスマホを捨てないでいたのは、紛れもなく“陽の側”への未練からだった。
電源ボタンを何度も押したり長押ししたりしても、画面には疲れ果てた自分の顔しか映らない。
なんてつまらないんだ、と呆れつつ、つい半年前のようにスマホを握ったまま布団に入る。
右手の親指で、画面に映る自分の口角あたりをフリックしてみる。けれども口角は依然下がったままだった。
それから何度も寝たり起きたりを繰り返した。遂には店のほうに降りることはなかった。
紫水が階段を上がってくる音がする。わたしの部屋の前で足を止め、少し経ってノックした。
「寝ていたらごめん。ちょっといいかな」
「大丈夫だけど……どうしたの」
紫水の声は普段以上に優しくて掠れ気味だった。ゆっくりと身体を起こし、布団の上で正座する。
彼は申し訳なさそうに襖を開け、わたしの体調を気に掛けてくれた。一日中眠っていただけだと言うと、安心した表情をする。
「お店の手伝い、出来なくてごめんね」
「そんなこと気にしないで。元々は僕ひとりでやっていたんだから。それに今日は黒曜が手伝ってくれたんだ。無愛想なあいつなりに接客を頑張ってくれたよ」
黒曜が客に笑顔で話しかけ、てきぱきと店を歩き回る様子はなかなか想像がつかない。
「接客とか好きな
「僕もあいつにそう言ったんだけど、『お前のためじゃねえからな』って凄まれちゃった」
あははと声を出して二人で笑い合ったが、空気は硬いままだ。互いに無理をしていることが透けて見え、むしろ痛々しい。
紫水も気付いているらしく、「本題なんだけど」と前置きして、どうにもならない雑談を早々と終わらせた。
「明日、縞井さんのところへ食器を取りに行くでしょう? そのときは僕だけじゃなくてきよのちゃんも一緒に行って欲しいんだ」
「……ごめん、わたし、明日も外に出られる気がしない」
「特に接客はしなくていいよ、そこにいるだけでいい」
彼の意図が分からず、首を傾げると、
「縞井さんの旦那さんが亡くなったらしい」
と真っ直ぐな目で言った。
縞井の夫とはついこの間会ったばかりで、わたしが届けたラーメンを嬉しそうに食べてくれた。彼がもうこの世界に生きていない、ということがどうにも受け入れられず、目を見開くしか出来なかった。
「ちょうど縞井さんのところへ荷物の配達に行ったお客さんが、旦那さんが亡くなったらしいって噂してて。さらにお客さんは言伝を受け取ってきたんだ。『この間ラーメンを届けてくれた子も一緒に来て欲しい。日程が合わなければ他の日でも良い』ってね」
呼ばれているのなら、行かないわけにはいかない。外出に一抹の不安を覚えながらも小さく頷く。
紫水はこちらに三歩ほど歩み寄り、しゃがみ込んだ。わたしの肩にそっと手のひらを添えて微笑む。
「無理はさせないよ。少し外に出てみて具合が悪くなったらすぐに引き返そう。縞井さんは大丈夫って言ってくれてるから、お言葉に甘えさせてもらおう」
「うん。ありがとう」
「化物が出ても安心してね、僕は強いから」
和服の袖を捲り、白く細い腕に力を入れて力こぶを作って見せる。
正直、
「そうだね。ありがとう」
今度こそ心からの笑顔で感謝を告げられた。
おやすみ。
そう言葉を交わしたときには、先程まで感じていた不安感は薄らいでいた。
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