27. 支柱が失われて。
どういうこと、と問い直す声は、ついには声になっていなかったけれど、紫水は察して答えをくれた。
「“月の側”にはある程度の人数、世界のバランスが崩れたときに対抗出来る力を持った人がいる。僕も黒曜も含めて、ね。だからきよのちゃんみたいにバランスを崩し得る人は、こちらに対応を任されるんだ」
「わたしが今も向こうの世界にいるのは絶対に不可能だったってこと? 偶然わたしが選ばれたのかと思ったけど、そうじゃなかったってこと?」
「そう、みたいだ。僕だってその点には確信を持てずにいたんだけど」
「じゃあ、わたしが向こうに戻ることは不可能ってこと? いいや、違う、ね。わたしが戻ったら皆を危険に晒すってことだよね……?」
紫水は唇を噛んで、再び俯いた。彼が先ほど言葉を詰まらせていたのは、わたしにこのことを気付かせたくなかったからなのだろう。
待合室でずんとのしかかる沈黙が、なにより確かな肯定だ。
世界のバランスを崩した結果どうなるのか、詳しいことは分からない。だがわざわざわたしを異世界に送るほど、バランスを保つことは重要なのだということは推察出来てしまう。
これまで“陽の側”に戻ろうとして取り組んできたすべてのことは無駄だったのだ。それを認識した途端、四肢から力が抜ける。
戻りたいという気持ちは、行動原理になっていただけでなく、精神的支柱にもなっていた。支柱を失った心は倒壊寸前で、もうなにを目標に生きたら良いのか分からない。
「わたしはこっちで生きていくしかないってこと……?」
最後の質問、というより独り言を吐いたとき、医院の奥から扉が開く音がした。
はっと音のほうを見ると、そこには体格の良い黒曜がぴんぴんした様子で立っている。後ろから慌てて河津が走ってきて、彼の前に出る。
「ああもう、治った途端にアバレナイでくれ! 本当に完治しているかカクニンしなきゃいけないんだ、勝手に動き回られちゃあコマルんだよ」
「俺自身がいけるっつってんだからいけるだろ。つーか俺はさあ、病院の臭いが嫌いなんだよ、なんつーか、薬品っぽい感じの」
「医師のオレの言うことをオトナシク聞いてくれ!」
ぎゃあぎゃあと言い合う二人の空気は、気落ちしたわたしと紫水の空気とは相容れない。わたしたちの違和感に気付いたのか、黒曜たちは声のボリュームを少し落とす。
黒曜は化物に襲われる以前となにも変わらず、横柄で図々しい。首にうっすら残っていた痕も消えている。
「すごく元気そうで安心したよ。一時はどうなることかと思ったから」
本心からの言葉だったが、やはり胸に先ほど知ったことが引っ掛かっているのか、喉が詰まったような声しか出なかった。唇のあたりだけで話しているようなひんやりとした気持ちだ。
そんなわたしの気掛かりを察してもなお、黒曜ならこれまで通り話すと思っていたのだが、
「ああ。悪かったな、お前を守ってやれなくて」
と珍しく謝った。なんだかよそよそしい。
「黒曜が気を失っている間、きよのちゃんが“覚醒”したらしい。お前が覚醒の引き金になったみたい。ちゃんと感謝するんだよ、河津さんにも!」
「閉じかけた目で、きよのが化物を光で貫くのを見ていたから知ってる。やべえなって思ったよ」
彼はわたしと目を合わせようとしない。右下のほうに視線を向けて、居心地が悪そうに頭を掻いている。
河津にも渋々とではあるが、「うす」と軽く会釈した。
「やべえ、って?」
「そう怖い顔をするなよ。別に深い意味はねえ、すごい力を持った人間だなって感心しただけだ」
「お前なんだか様子が変だ。きよのちゃんを視界に入れないようにしてるというか……待てよ、お前まさか」
「ハナシは終わりだ! オレたち蛙族が天才医療種族だから、なんの後遺症もなくゲンキにしてるが、普通の医者にかかっていたらニイサンの生命力は今頃底をついてたゾ。ほら、大人しく天才医師の指示にシタガッテくれ」
二人の間に割って入った河津に、今度ばかりは黒曜も素直に従った。もはや彼を押すようにしてそそくさと奥の部屋へ戻ってしまう。
「おい、蛙。今回ばかりは助け舟に感謝する」
「カエルとはなんだカエルとは! 命の恩人だぞ、河津センセイって呼べ!」
奥からはそんなやり取りが聞こえてくる。
隣に立つ紫水は、大きなため息をついて目を手で覆っている。
わたしの視線に気が付いたらしく、独り言のような言い方で、
「きよのちゃん、あんまり皆に素敵なところ見せちゃだめだよ」
と意味が掴めない忠告を受けた。
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