26. 二つの信託。
河津の家は、ラーメン屋『銘杏』とは反対方向にあった。
これまで足を踏み入れたことのないその地区には、見慣れない風景が広がっていた。家々の玄関口に色とりどりの提灯がぶら下がっているのだ。赤、橙、黄……と虹色の順に並んだ提灯に囲まれて歩いていると、虹の上を歩いている気分になる。テーマパークのように明るくて、こんな状況でなければ思わずスキップしていたと思う。
初めて河津の家を訪れて、彼の職業が医師であることを知った。そういえば“月の側”に来た日、兎部の傷口を舐めることであっという間に傷が塞がっているのを見た。
白衣を羽織る彼は医師そのもので、意識を失った黒曜を見てもほとんど動じない。
「おっと、ずいぶんデカイ兄さんだなァ。どうした? 紫水が走って連れてくるなんて、ヨッポドだろ」
「僕の昔からの友人なんです。濁りから生まれた怪物に襲われたらしくて」
「ヴィヴィットピンク色をした馬みたいなやつで、不意打ちを食らって長い尻尾に首を絞められて、それで」
「ハハ、きよのがしどろもどろになってもイミないぞ。落ち着け」
河津はなんの曇りもない笑顔で豪快な笑い声を上げる。顔面蒼白になりかけている紫水に、黒曜をベッドに寝かせるよう指示すると、彼はベッドを奥の部屋へと運び込んだ。
続いて入ろうとした紫水を制止し、
「オレひとりにマカセテくれよ。二人の情報共有すら出来てナサソウだが、そっちが最優先だ」
と言ってひとりで部屋へと入ってしまった。
家を形作る木のところどころが朽ちかけ、不思議な円の模様を作っている。旅行先でこういう模様を見つけると、顔が浮かび上がっているように錯覚してどうも眠れなくなるのはわたしだけじゃないと思う。
玄関口にある緑色の提灯が、侘しい内装をほのかに照らす。
わたしたちは玄関を入ってすぐのところに置いてある木製のベンチに座った。心細さからか、寄り添うようにくっついた。
奥の部屋が気になって落ち着かない。
「黒曜は、相当良くない状態なの?」
「そうだね。少し言ったけど、濁りから生まれた化物は向き合うだけでこちらの生命力を奪っていく。首に尻尾が触れたままだったならなおさらだ。意識を失ったのだってきっと、首を絞められたからじゃない」
「わたし、黒曜が戦ってくれていたのに、意識を失うまでなにも出来なかった。自分から大丈夫だって言って外に出たくせに、ごめん」
握り締めた手を膝に置いて、指先だけを動かす。
紫水は首を横に振ると、大きな手でわたしの手を包んだ。
「きよのちゃんのせいじゃないよ。あんなのに遭遇するのは本来、天文学的な確率なんだ。あの化物を想定するのは現実的じゃない」
彼の手の温かさが移ってくる。そしてじわじわとわたしを満たしていく。
「さらに黒曜が襲われたのは、あいつ自身の力のせいでもある。あいつは曲がりなりにも神社の後継ぎだから、少なからず浄化の力を持っていて、それを化物に見抜かれたんだと思う」
「浄化の力を持っていると襲われるってこと?」
「うん。まああちらさんも浄化はされたくない。だったら浄化出来るほうを先に狙ったほうが良いでしょ?」
「霊感がある人に霊は近寄ってくるみたいな感じかな」
「それはちょっと違う気がするけど……」
紫水は苦笑したが、またすぐに真剣な顔になる。わたしの手を握ったまま向き合うように身体の向きを変える。
「きよのちゃん自身に、なにがあった? 上手に言語化出来なくても良いよ」
あのときのことを思い出そうと目を伏せる。
そして気付いた。わたしが馬を消滅させる前後の記憶が、それ以外の記憶より圧倒的な早さで褪せていっていることに。もう少し遅れていたら完全に記憶を失っていただろう。
焦って、出来るだけ多くを話そうと努めた。
「化物に苛立って、そうしたら胸が炎で焼けるみたいになって、そうしたら身体からレーザーみたいな光が出て」
何度も言い淀み、話の順序もめちゃくちゃだったが、紫水はなにも言わず聞いてくれた。時折彼がゆっくりと頷くだけで、わずかながら落ち着きを取り戻せた。
話を聞き終えると、紫水はうなだれた。真っ白な髪が生える真っ白なつむじが、わたしの目の前にある。
「どうしたものかな……」
ぽつりと、かろうじて聞き取れる程度の声で言う。そして躊躇いが窺えるようなゆっくりした動きで顔を上げ、わたしの目を真っ直ぐ見た。
「きよのちゃんは、僕らが思っていたよりもずっと浄化の力が強いみたい。化物に向かって放ったレーザーは、言わば浄化の力を凝縮したようなものなんだけど、凝縮出来る人間はほんの一握り。濁りから生まれた化物に対抗出来るのは“月の側”でも僕たち狐族くらいなんだけどね」
「じゃあわたしは紫水たちみたいに、化物を退治して、河津さんや兎部さん、それに街のみんなを守れるってこと⁉︎ ……嬉しい。これまで守られてばっかりだったから。“陽の側”に戻りたい、なんてわがままも言ってるし」
「そう、なんだけどね」
また目を伏せてしまった。彼がここまで歯切れが悪かったことはかつてない。
なにが問題なの、と小さな声で先を促した。思っていたよりも声が掠れていて、紫水の言葉をひどく恐れていることに、我ながら驚いた。
「あんまり気負わないって、約束してくれる?」
わたしは目を泳がせながら、どうにか頷いた。
その様子から不安を感じ取ったのか、紫水はわたしを安心させるように、そして取り繕うように笑った。しかし笑顔の奥には変わらず躊躇いが透けて見え、むしろわたしの不安を煽る。
「そこまで浄化の力が強い人間は、“陽の側”には二十年までしかいられないんだよ」
「え……」
さらに掠れたわたしの声は、もうほとんど聞こえなかった。
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