19. 触れない位置。

 紫水はわたしの部屋の襖に手を掛けて「開けてもいい?」と尋ね、頷いたのを見るとすぐに襖を開けた。

 普段なら布団を畳んでおくのに、部屋の真ん中には布団が敷きっぱなしになっていた。そういえば昨夜はここで黒曜が眠っていたのだと思い出し、紫水はせっせと自分の部屋から布団を運んでくる。


 そっと身体を支え、ガラス細工でも置くかのように丁寧にわたしを横にする。例の優しい香りのする布団を掛けられると、凶暴な睡魔に襲われて目が勝手に閉じていく。

 枕元に腰を下ろした紫水は、暖かな瞳でわたしを見つめ、大きな手をわたしの髪に触れる直前まで伸ばした。しかしはっとしてその手は引っ込められてしまう。


 どうしてだろう、すごく、淋しい。


 わたしは無言で紫水の手を取ると、自分の頭に導いた。

 戸惑っていた初めこそ手は頭に載っていただけだったが、見上げるわたしと視線を交わした途端、彼は手を動かしてわたしを撫で始めた。目を細めて浮かべた笑顔は泣いているように見えるほど愛情に満ちていた。


 引き寄せられるみたいにわたしの手も紫水の髪の先に触れて、つむじに向けてするりと上っていく。

 つむじに辿り着くよりも早く、彼の黄金色の狐耳に触れる。ふわふわした耳はぴくりと動き、その後もずっと鼓動のように動いていた。


「ふふ、気持ち良い」


 わたしがそうつぶやくと、彼は少し屈んでくれた。腕をぐんと伸ばさずとも触れる位置に来た耳を、指先で摘まんだり、指の腹で円を描いたりする。

 少々くすぐったそうに身をよじらせつつも、彼の手はなおわたしを撫でる。


 安心感に包まれ、微笑んだままわたしは眠りに入った。


  んんー、と喉から絞り出すような呻き声を上げて寝返りを打つと、肩になにかが触れてくすぐったさを感じた。


「紫水、寝ちゃってる……」


 太陽を囲む光のように広がった、白く長い髪は、窓から射す夕陽を受けて輝いている。

 わたしが動くまで肩に触れそうで触れない位置にあったであろう彼の髪は、先ほどわたしの頭に伸ばされた指に似ている。彼は自ら触れてくることはないのだ。いつも触れない位置でぴたりと止まる。

 

 自分の腕を枕にして、畳の上で丸まって眠る彼の顔を見つめる。

 綺麗だな、と思うと同時に、なんだか赤らんだ頬に目が止まって、頬にそっと近付いた。


「んん、きよのちゃん……?」

「ごめん、起こしちゃった? 顔が赤いから具合でも悪いのかと思って」


 ゆっくりと身体を起こした彼をまじまじ見ると、目が開ききらず、顔色も悪く、尚更その気怠けだるげな様子が心配になる。


 苦笑いを浮かべた彼は、恥ずかしそうに頭を掻いて言った。


「あの後、河津さんや兎部さんたちの相手をしたんだ。僕、結構お酒弱くって、お猪口三杯くらいでこうなっちゃって」

「どれくらい飲んだの?」

「うーん、途中から記憶が曖昧だけど、安いお酒一瓶くらいは飲んだんじゃないかなあ。ふらふらになった僕を見かねて二人がここまで連れてきてくれたみたいだけど、ここ僕の部屋じゃないんだよなあ」


 ごめんね、と小さく言う彼に、わたしは首を横に振って、


「お酒弱いのに、わたしと代わってくれてありがとう。心配掛けてごめんね、そんなに変なことしてた?」


 と尋ねると、彼は困ったような表情を浮かべた。「ええっと、その……」と言葉選びに迷っている。

 囁く程度の声量でなにかごにょごにょと言ったが、よく分からず、聞き返した。

 言い直した声も決して大きいとは言えなかったものの、今回は辛うじて聞き取れた。


「きよのちゃんがあまりにも可愛らしかったから」

「え!?」


 面と向かってこんなことを言われたことなどかつてなく、少々裏返った声を返す。

 本当にわたしがまた聞き取れなかったと勘違いした紫水は、目をぎゅっと瞑って、なりふり構わないといった様子で大声で繰り返そうとする。


「き、きよのちゃんが!」

「聞き取れた! 聞き取れたからもう大丈夫!」


 互いにわあわあと大声で言い合った挙句に訪れた沈黙が、わたしたちの間に気まずい空気を作る。


 紫水は和服の裾をぎゅっと掴むと、言葉を継いだ。


「別に僕、恋人でもないし、それこそもう婚約者でもないけど、可愛いきよのちゃんが他の人に見られたくないって思った。それは僕の本心だから、一応、覚えておいて」


 しばらく視線を交わす。顔がどんどん火照っていくけれど、どうしてだか目を逸らすことが出来ず、時間だけが過ぎていく。


 先に目を逸らしたのは紫水だった。というより、彼はばたりと倒れてまた眠ってしまった。

 わたしは解放された安心感で思わず笑みが零れ、少々余裕のある手つきで布団を掛けてあげた。ふわりとした羽毛の下で、彼は穏やかに寝息を立てている。


 ひとりになってみると、下の階から聞こえるどんちゃん騒ぎの声が気になり始める。

 まだ河津たちは帰っていないようだ。店主不在のままではまずいだろうと思い、重たいまぶたを擦りながら、階段を下りる。

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