20. 法則破りの先人。

 わたしを見るなり、河津はピューピューと口笛を吹いた。あからさまにからかう彼の緑色の顔に、分かりづらいが赤みが差している。


「よっ、愛された人間!」


 河津の大声に鼓舞されたように、周りの客たちも口笛を吹いたり合いの手を入れたりと、からかいに加担する。

 意味を理解出来ず首を傾げるわたしに、


「アンタを連れて行く紫水の目、すっげえ柔らかかったぞ。あんな目を見るのはアイツがここで暮らしていたとき以来だ。アイツと同じくらい、ズイブン気に入られてるラシイな」


 と言って小突く。

 他の皆も、「あれはただの気遣いじゃねえ、純粋な愛ゆえの表情だよな」と言ってにやけている。


 以前、紫水の本心は聞いてしまったので、その点については引っ掛からない。周囲から愛を帯びた関係の二人だと見られることには当然抵抗があるが、元々婚約者として始まった関係だったこともあり、甘んじて受け入れようと思えてしまう。


 それよりわたしが気になったのは、紫水に優しい目を向けられていたらしい“あいつ”のことだ。誰のことなのか思い当たる節がない。


「“あいつ”って誰のこと?」

「あ? なんだ、センパイのことすらも聞かされてないのか?」


 首を傾げるわたしの前に、酒瓶が差し出される。筆で豪快に商品名が記された『狐いびと』とは違い、丸文字が適当に印刷されていて、安物であることが一目で分かる。

 まだ酒が残っていてクラクラするので断るも、河津はなかなか諦めない。勝手にカウンターのグラスを取ってきて注がれてしまう。


 彼は、かんぱーい、とひとりつぶやいてから、話し始めた。


「きよのより前に“陽の側”からこっちに来たニンゲンは五十人くらいいるらしい」

「そんなにいるの⁉︎ 聞いたことないけど」

「“陽の側”に帰れないことはオマエが一番知ってるダロ。普通にこっちで暮らして、普通にこっちで生涯を終えたミタイだけど、これまでもずっと百年にヒトリずつ送られてきてるんだよ」


 それはそれとしてな、と前置きして、河津は真面目な顔をした。彼の薄ら笑いを浮かべた顔ばかり見ているので、こういう表情には耐性がなく、自然と身構えてしまう。


「紫水が産まれてからはきよのをフクメテ四人がこっちに来た。あいつの誕生とともに、祈りだけでは濁りに対抗できなくなって、あいつとの婚姻が必要になったわけだが……婚姻は百年にイチド。紫水がゼロ歳のときは当然婚姻はしねえし、どうにか祈りで濁りをそそいでた。……オカシイと思わねえか」

「紫水が百歳のときと、二百歳のときに送られてきて、三百歳のタイミングでわたし。だったらこれまで“月の側”に来たのは三人のはず。そういえば前、紫水は『二回結婚した』って言ってた。ひとり、こっちに来たけど結婚しなかった人がいる、ってこと……?」

「ゴメイトウ。二十年前、百年の法則を破って来たニンゲンがいる。そいつは今、“陽の側”でコドモと幸せに暮らしてるハズだぜ」


 驚きすぎて、目の前のグラスを力強く掴み、口いっぱいに液体を含んで飲み込んだ。思いがけないアルコールに、脳がくらりとする。


 わたしたちの話を横でじっと聞いていた兎部が、懐かしむように言う。


「すごい美人だったよなあ。泣きぼくろが印象的でさ、凛とした雰囲気でさ」


 それから他の客たちも彼女がどれだけ美人だったかで大いに盛り上がった。わたしの中で彼女のイメージが膨らんでいく。


 話を聞くに、彼女はわたしと同じようにラーメンに吸い込まれてこちらに来たらしい。そのとき子供を身籠もっていたようだ。


 客たちはなおも思い出話を続ける。


「俺は彼女がこっちに来たところに居合わせたんだけどよ、初めは鼓膜破れるんじゃねえかって思うくらい大騒ぎしてたぜ。で、紫水から少し“月の側”に来たって話を聞いただけで全部を察して、今度は帰せって大騒ぎし始めた」

「確かに察しが良かったよな! カジノのルールも振る舞いもあっという間に周りを見て覚えて、客の希望を先回りして叶えておくタイプっつーか」


 大盛り上がりする彼らは、結局、口を揃えて彼女のことをこう評した。


「芯が一本、ど真ん中に通った女だ」


 と。


 聞きたいことがありすぎて、なにから尋ねようかと悩んでいる間に、二階から物音が聞こえてきた。紫水が目を覚ましたらしい。


 兎部は腕時計を見てわざとらしく嘆く。


「ああ、こんな時間だ! この惨状を紫水さんに見られたら絶対に怒られる」


 時計を見ながら走って店を後にする姿は、さながら『不思議の国のアリス』の白うさぎのようだ。

 彼に続いて客たちは、誕生日を祝う言葉や別れの言葉さえろくにないまま、次々と帰路についた。


 最後に堂々とした足取りで扉のほうに向かった河津だけ、わたしに左目を瞬かせて行った。キザな行動にどう返事して良いかわからず、とっさに出たのは苦笑だけだった。

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