18. きよのを見守る会、発足?

 長らく気になっていたことを聞くなら今がちょうど良いと思った。


「紫水が起きていることにも気付かないで、よく眠れちゃった。紫水の布団の匂いがすごく安心する匂いだったから。なにか香水でもつけてるの?」


 彼はぽかんとした表情をして、自分の袖を顔に近付け、くんくんと匂いを嗅ぐ。しばらく嗅いでいる姿はまるでエサを辿る犬のようで、ちょっとだけ可愛いなと思った。

 ひとしきり嗅いで、首を傾げる。


「なにか特別な匂いがするだろうか? 意識して匂いをつけているということはないけれど」

「ええ? その匂いが天然ものなの?」


 頷いた紫水の肩に、浅黒い腕がどんと載せられた。二人ともどうしてか近付く人影には気が付いていなかったので、思わず間抜けな声を上げる。


「心が惹き合う者同士は、互いの香りに自然と寄せられるものなんだよ。なぁ? きよの」

「黒曜。お前は自由に寝て起きて、勝手に会話に入ってからかって……どこまで自由人なんだ。僕の家を自分の家のように思ってるだろう」

「自由なのが俺の良いところだろ?」


 紫水は呆れたと言わんばかりのため息をつきながらも、「おはよう」と朝の挨拶をする。

 黒曜はそれに答えず、一晩中そのままだった三つ編みを解く。そして綺麗にウェーブが付いた漆黒の髪を適当にかき上げる。


「ふあぁ……じゃ、俺は家で寝直すわ。またな。次に俺が来るまでに美味いもんを作っておけよ」


 図々しく要望までして、気怠い様子のまま外へ出て行った。

 ざっざっと草履を引きずる音が次第に離れていく。


 それから少し経った頃、黒曜と入れ替わるようにして、河津や兎部など、常連客が次々訪れた。

 河津は店に入るなり、カウンター席にどかりと遠慮なく腰を下ろし、


「スッカリ気候が湿っぽくなってよォ、オレらにとっては暮らしやすい時季になってきたゼ。紫水はなんだかゲンキがねぇみたいだがな」


 と誰に言うでもなく大きな声を出す。

 苦笑する紫水の代わりに兎部が会話を継ぐ。


「俺や紫水さんみたいに毛並みのある種族にとっては湿気は大敵さ。ここ数日、尻尾が重くて、腰が痛いったらありゃしない。なぁ?」

「そうですね、僕も耳が重く感じます。あはは」


 軽薄に笑う彼の顔を、元気がないのは耳が重いせいじゃないくせに、と、じとっとした目で見る。


 こういう嘘をつくのが、紫水はやけに上手い。しどろもどろになったり目が泳いだりはしないし、笑顔に紛れ込ませるから誰も彼を疑わないのだ。

 小さな嘘が上手い人は多分、大きな嘘も上手い。この世界のことを一から教えてくれたのは紫水だから、わたしの知ったことは実はすべて嘘なのではないか、と時々本気で思う。


 あっという間にカウンターを埋め尽くした客たちは、揃いも揃ってなにかを楽しみにしている様子だ。

 開店には早すぎる時間の満席に戸惑っていると、紫水が声高らかに宣言した。


「皆さん、お集まりいただきありがとうございます! では、きよのちゃんの二十歳のお祝いを始めます!」

「え⁉︎ 皆が集まったのは、わたしのため?」

「この間誕生日だったよね? 誕生日直前に聞いたものだから、なにも用意出来なかったけど、せめて大勢で祝えたら良いなと思って声を掛けたんだ。それと」


 紫水はカウンターの下から縦長の箱を取り出した。和紙のようなデザインの箱には、大胆な筆遣いで『狐いびと』と書いてある。


「お酒を飲み交わしたいと思ったんだ。あっちでは二十歳からお酒が解禁されるって聞いたけど合ってるよね」


 わたしが頷くと、彼は嬉しそうに笑う。


「初めては上質なもののほうが良いと思ってね。“月の側”で一番高級な日本酒を用意したんだ」

「うおっ! 『狐いびと』じゃないか! お嬢さんにはちと早いと思うけどな」

「物は試しです。兎部さん、そんなじっと見つめても渡しませんよ」

「大人として酒の飲み方を教えるために代わりに飲んでやろうと思っただけなのに手厳しいな」


 酒瓶に向けられる、河津と兎部の視線から隠すように、小さなお猪口に酒を注ぐ。


 透明な液体は水そっくりだが、どこか違う。きっと、艶やさときらめきが違うのだ。ひどく美味しそうに見えて、わくわくした気持ちでお猪口を受け取る。

 同じお猪口に紫水のぶんも注ぎ、お猪口同士をぶつけて軽快な音を立てた。


「きよのちゃん、お誕生日おめでとう」

「ありがとう。……乾杯!」


 カウンターの客たちもそれぞれ安い酒が入ったグラスを掲げる。


 お猪口に口をつけたとき、酒特有の鼻腔奥まで届く香りが漂ってきた。

 甘ったるいような、深みから立ち上る香りに、紫水の匂いと通ずるものを感じた。途端に胸がきゅっと締め付けられたようになって、喉の渇きを覚える。

 スポーツドリンクでも飲むかのごとくぐいとお猪口をあおる。


「わ、苦い!」


 思わず口をついて出た感想に、皆が笑う。俺たちも初めはそうだったな、とか、どんどん癖になっていくんだよな、とか、各々の若い頃のエピソードが飛び交う。


「ふふ、『狐いびと』はちょっと大人向けの味だから、そう言うと思った。どうする? もうやめておく?」


 微笑む紫水に向かって、わたしは首を横に振る。


「せっかく買ってくれた高いお酒なんでしょ? もう少し飲みたい。でも二人だけで飲むのは淋しいから、河津さんたちにも分けようよ」

「あんたヤサシイなあ! さすが救世主サマだ!」

「皆さんには皆さん用のお酒を用意していたけど、今日の主役がそう言うなら、分けようか」


 俺たち用なんて言って、ただの安い酒じゃないか! と文句を言う客に苦笑しつつ、紫水は『狐いびと』を配る。客たちはすぐに飲むことはせず、じっくり眺めたり匂いを嗅いだりして五感で堪能した。


「乾杯し直そうぜ。同じ酒を掲げてこんな大勢で乾杯するなんて、まるで同盟を組むみたいだ」

「確かに。……そうだ! こんなのはどうですか? 『きよのちゃんを見守る会』」

「なんだかわたしが子供みたいじゃない?」

「いいじゃねェか。アンタは少しでも目を離すとキケンに巻き込まれるからナ、タスケテやるよ」


 わたしは全然納得していないのに、皆がそれに賛同していく。

 言葉を挟む隙もなく話が進み、河津が杯を掲げて音頭を取る。


「ヨシ、『きよのを見守る会』の発足に、カンパイ!」

「かんぱーい!」

「はは、さっき一度乾杯はしてるんですけどね」

「本人が会の発足を認めてないんですけどね!」


 まあまあ、とたしなめられながら、半ば無意識に酒に再び口をつける。

 口に広がる苦味の奥に、先ほどは見つけられなかった旨味を発見し、透き通った液体を凝視した。

 わたしの様子を見ていた紫水が微笑んで言う。


「ちょっと美味しくなってきた?」

「戸惑うくらい、美味しい。苦いって思ったのにその苦さが良く思えてきた」

「おお! これウマイんだよナ! ウマサが分かってきたならアンタのための酒なわけだし、もっと飲めばいいさ。ホレ、いでやる」


 わたしが指先で摘まむようにして掲げたお猪口に、透明な液体が満ちていく。無色であるぶん、店の照明がそのまま写り、天井を飲んでいる気持ちになる。


 酒の澄んだ美しさも相まってどんどん酒が進む。

 なんだか顔が熱く、目が腫れている感覚がしてきた。それでも次々と注いでくれる河津に乗せられて止められない。


「ホウラ、なみなみだぞー。気を付けて飲めヨー」

「あはは、本当になみなみだ。あはは、あははは」

「笑うたびにコボレちまってるぞ、モッタイないぞ。上のほうを吸うみたいに、コウヤッテやるんだ」

「あはは、河津さん、タコみたい。顔は蛙そのものなのにね」

「うるせえな、オレは蛙族の中では結構ビジュアル良いほうなんだゾ」


 河津の言うことすることすべてが面白く感じられて、笑っているうちに、気付けばカウンターが『狐いびと』で水浸しになっていた。

 紫水は苦笑してタオルでカウンターを拭きながら、わたしに酒を手放すように促す。けれどもわたしの意識は朦朧もうろうとしていて忠告が耳に入らない。紫水は河津に止めてもらおうと思ったが、彼もまた泥酔していて話にならない。


「ホレ、早くお猪口をこっちにヨセロ」

「わあい。ありがと……」

「もう終わり! はい、きよのちゃんは少し休憩して。河津さんたちは僕と一緒に飲みましょう」


 わたしが受け取るはずだったお猪口を、紫水が横から取り上げる。舌はまだ『狐いびと』の旨味を求めているから諦めきれず、フリスビーを投げられた犬のようにお猪口を追いかけてしまう。


「お願い、もう少しだけちょうだい」


 上目遣いにおねだりする。酔って熱くなった頭で、こんな瞳でこんな声色で言ったらおねだりの成功率が高いだろう、なんて思ったりして。

 正直なところ、紫水はわたしのおねだりを却下したことなんてなかったので、今回もなんだかんだ言って許してくれるだろうと高を括っていた。しかし今回の紫水はいつもと違った。


「駄目と言ったら駄目だよ。手を貸して。ゆっくり立ち上がって。おっと、僕の手をしっかり掴んでいてくれ」


 てきぱきとわたしの両手を引いて階段のほうへ向かう。足下がおぼつかないのを見かねて腰にそっと手を回し、まるでエスコートするかのように階段を一段一段踏んでいく。

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