黒部川

黒部雷太郎

第1話 黒部川

 孫と祖父の住む県は、太平洋側と日本海側に分かれていました。そのため、当時はどちらかが、車や電車で相手に会いに行くと、とても長い時間がかかり大変なことでした。


 そして孫はまだ小学生で両親と暮らしていました。ある年夏休みになり、父親の運転する車で、高速道路を利用して祖父の家へ行きました。いくつもの山に入りトンネルを抜けその車は北側に進みます。それから、孫は路上でスイカが売られているのを見かけました。そしてそれは、関東では売られていない巨大な大きさだったので、彼はスイカを見た時に食べ物だとは思えなかったのでした。

 父親は時折休憩しながら、車の走行を続け、祖父の住む富山県に着いたのは夜更けになりました。暗闇の上空には、とても小さな宝石を散りばめたように星が輝いています。父親は、祖父の家の敷地に車を停めて、杉の木に囲まれたその家へ皆で入りました。


 それから到着を待っていた、祖父の家族が大きな柱時計のある居間で、孫たちを迎え入れます。祖父は長年の一族のしきたりで、正座をしたまま、畳に頭を着けるようにしてお辞儀をしました。そして、孫も両親を見習って同じように座り、頭を深く下げたのです。


 その日は地元で獲れる魚料理を食べ、田舎の大きなお風呂に入ってから、孫は家族と和室に用意されていた布団で眠りました。両親が眠っている間に、孫はフクロウの鳴き声を聞き目覚めます。それは、都会では聞いたこともない、動物の発する独特なリズムの音でした。

「今は何時だか分からないけど、もう夜が明けたみたいだな」と孫はふすまの閉められている和室で呟きました。そして布団から、するりと抜け出し一人で居間へと向かいます。辺りは薄暗く祖父の家族も誰一人起きてはいませんでした。

 孫は結局、もう一度両親の寝ている和室に戻り、毛布の中へ潜り込むように入りました。そうやって、家の中で誰かが目を覚ますのを待つことにしたのでした。

「朝になったから、もう起きなさい」

 いつの間にか、眠っていた孫は母親の呼びかけで再び目覚めます。

「わかった」と答えて孫は、パジャマを着替え祖父の家族と一緒に、朝食を取ったのです。両親の間に座って、煮魚をつまんだ孫はフクロウの鳴き声が、また聞こえたように感じました。

 その音を思い出すと、孫はもう都会の学校での生活は、終わってしまったのではないかという錯覚を抱いたのです。でも本当は、家の外でフクロウは鳴くのを止めていたし、夏休みが終われば学校の授業は始まります。


「おじいちゃんと囲碁をしよう」と祖父は、お昼近くになると孫へ提案しました。孫もそれを了承し、二人は縁側で囲碁をすることになりました。彼は1年前に父親から、囲碁のルールを教わり急速に強くなっていったのです。

 孫はハンディをつけてもらい、長い時間夢中になって対局しましたが、珍しい形となり引き分けになりました。でも二人は、二回目で決着をつけようとはせずに、それっきり囲碁を終わりにしたのです。


 また祖父と孫以外の者は、それぞれの用事で外出していたため、広い家の中で二人だけしかいません。そして祖父は田舎に最近できた、スーパーマーケットへ孫を連れて行くことにしました。

 田んぼの間の道を二人で歩いていると、孫は祖父の戦争体験を聞いてみたいという思いがしました。でも祖父のピンと伸びた背筋を見て、なぜだかはっきりとした訳もなく、その話題は出せないようになってしまったのです。

 そびえ立つ電柱を通り過ぎると、孫が話しかける前に祖父は、小学校での日常を質問しました。

「小学校では何かスポーツをやっているのかい?」

「野球をやっていたけど辞めたんだ。その後にサッカークラブに入ったんだよ」

「サッカーって、ボールを蹴っ飛ばすやつのことかい?」

 祖父にとっては、サッカーは馴染みのない競技でした。

「うん。相手のゴールにボールが入れば得点になるんだ」

 孫がそう説明しても、祖父はあまり理解していないようです。

「おじいちゃんは、どんなスポーツをしていたの?」

「軍隊に入っていたからね、柔道と剣道の訓練を受けて毎日、体を鍛え抜いたんだ」

 祖父は昔を懐かしむように頷きます。

 やがてスーパーマーケットの駐車場に着き、孫は祖父から亡くなった祖母の話を聞かされました。

「おばあちゃんはねえ、この店の近くにある家で生まれたんだよ」

「そうなの。ここから見える?」

「あの鶏小屋の裏にある家だよ」

 孫が祖父の視線の先を、あどけない目で追うと周囲より、ひと際大きな家屋がありました。

「あそこで、おばあちゃんは家族と暮らしていたの?」

「そうさ。おじいちゃんと結婚する前に居たんだ」

 祖父は当時のことを孫に教えました」

「おじいちゃんは、どうやっておばあちゃんと知り合いになったの?」

「戦争が始まる前にね、伯父さんが紹介してくれたのさ」

「あの大きな家にも行ったことがあるの?」

「一度だけね、おばあちゃんをお嫁にもらうため、その伯父さんに付き添われて行ったんだ」

 孫は若い頃の祖父が、伯父さんに連れられて、祖母の家に入って行くところが目に浮かびました。孫は豊かな想像力を持っていたのです。また、祖父の若い頃に写された、軍服姿の写真をよく見ていたためそれができたのでした。

 それから、二人はスーパーマーケットの中へ入り、お弁当と煙草たばこを1ケース買って元の道へ帰りました。その途中で孫は、田んぼに見える墓石の集まりを見て、自分の住む地域との景色の違いを感じたのです。

 また、家を出た時とは違って、帰り道では二人ともお互いに話をしなくなりました。でも孫にとっては、祖父の歩く速さに合わせて前進するだけで、多くのことを話し合っているような気持ちになっていきました。


 ようやく家が見えてくると、祖父は急に立ち止まりました。そして、これまでのように黙ったまま胸を張って、正しい姿勢の見本のような体勢をしています。孫が祖父に、歩かなくなった訳を聞こうとすると、音もなく1台のタクシーが祖父の隣に停まりました。

 祖父はタクシーが動いていないのに、車を停める時にするような仕草をしました。運転手に向けて右手を上げたのです。それから孫が、タクシーを見ると後部座席側のドアが開きました。また運転手は、孫の小学校の教頭先生によく似ているのが分かります。

 二人が乗車すると「黒部川まで行きなさい」と祖父が、運転手に指示を出しました。そしてその男は、後ろを振り返ってから小さくお辞儀をして、タクシーを発進させたのです。

 祖父の家の前を通り過ぎ、短いトンネルを越えタクシーは速くもなく遅くもないスピードで、砂利道を移動して行きました。でも車内で話をする者は誰もいませんでした。


 やがて橋の前に車が着くと「おつりは取っておきなさい」と祖父が言って運転手にお札を手渡したのです。彼はそれを丁寧に受け取ると、喜んで微笑み二人が降車するのを見届けました。

 それから車が、見えなくなるまで離れると孫は、黒部川から流れ出る音を聞いて時が止まってしまったように思えたのです。そして祖父は、生い茂る叢の間にある黒部川を見つめて、立ち尽くしました。


「おじいちゃんが戦争から帰ってきた日にねえ」と祖父は急に話し始めます。

「疲れ果て久しぶりに、家の玄関へ入ると置手紙があったんだ」

「それにどんなことが書いてあったの?」

 孫が無邪気に知りたがります。

「黒部川で暮らしています」とおばあちゃんが書き残したんだ。そして家にはおばあちゃんの靴も消えていたんだよ。

「一人で家を出て黒部川へ行ったの?」

「その時は、分からなかったが急いで後を追ったんだ」

 祖父はゆっくりと答えます。

「それからどうなったの?」

「雨と風が強くて歩きにくい日でね。そこへ着くまでに、かなり疲弊してしまった」

「そうだったの。でもおばあちゃんは、この近くで見つかったのかな?」

 孫は黒部川の、しんとした静寂さにいくぶん緊張しました。

「叢をかき分けて、おばあちゃんを捜し回ったけど見つからなかった」

「手紙に書いてあったことは事実じゃなかったの?」

「そう思って、諦めて家に帰ろうとしたら、風も雨もぴたっと治まったんだ」

 祖父は孫の方へ顔を向けています。

「少し不思議だね」

「それから、のような物が、叢を這って動いているのが見えたんだ」

のような物!」

「大蛇だったよ」

 祖父は真剣な顔をして答えました。

「大蛇!おじいちゃんはそれを見て怖くなかったの?」

「びっくりして、震えが起きたんだ。それが、どこまでも長くて巨大な体に見えたからね。でも、そのうちに大蛇をに思うようになったんだ」

「大蛇は川の中へ入って行ったの?」

「川の手前にあった厚みのある石の所で動かなくなったんだ」

 それを聞いて、孫は停止した大蛇を想像しました。

「それで、おじいちゃんはどうしたの?」

「足がすくみそうになったけど、ゆっくりと大蛇に近づいて行ったんだよ」

 祖父は説明しました。

「それから、何か起こった?」

「相手のお尻の所へ行くと、二つの球が光っていた。でもよく見ると、それは大蛇のだったんだよ」

「大蛇のお尻にはがあったの?」

 孫にはその状態がよく分かりませんでした。

「いいや、お尻だと思っていた部分が、大蛇の顔だったんだ」

「うわー!その顔に接近してしまったんだね」

「そうだ。それで、自分の体が硬直してしまった」

 祖父が、遠くを見るような目付きをします。

「大蛇は動いたの?」

「ああそうだ。急にねえ、大きな口を縦に開いて、迫って来たんだよ」

「おじいちゃんは、すぐに逃げたの?」

 孫は不安そうな表情で尋ねました。

「駄目だった。逃げられなかったよ。でも、噛みつかれる直前でまた、大蛇は動かなくなったんだ」

怪我けがをしないでよかったね」

「それから、急いでその場から離れてこの橋まで逃げたんだよ」

 祖父が、近くにある橋を指差しました。

「大蛇は死んだの・・・・・・」

「分からなかった。そしてその後、川の方から橋へ向かって、着物姿の人が歩いて来たんだ」

「それがおばあちゃんだったの?」

「そうだった。でもなんで黒部川にいたのか話そうとしなかった。それに大蛇は跡形もなく消えてしまったんだ」

「おばあちゃんは、健康でいられたの?」

「大丈夫だった。それでも、黒部川に関しては記憶喪失の状態になっていたよ」

 祖父は目を細めました。

「その後は、二人で無事に家へ帰ったのかな?」

「ゆっくりと、一緒に歩きながら家へ向かったんだ。そして、長い時間がかかったけど安全に着いたよ」


 孫はそれを聞いて、話を続けようとしましたが、言葉を失っていました。視界に入っていた川が、いきなり暴れるように氾濫し始めたのです。そうなっても祖父は、川の状態に気付いていませんでした。

 川は勢いを増し、蛇行しながら二人に迫りました。そしてなぜか、祖父は目を閉じて突っ立ったまま、逃げようとはしなかったのです。


 ゴゥオーという轟音を伴って、濁流が二人を吞み込もうとした時、孫は夢から覚めます。彼は富山県内の病院の一室にいたのでした。目の前には、昏睡状態の祖父がベッドで点滴のチューブに繋がれています。

 大学生の孫は、夢の内容を思い出せませんでしたが、都会から泊まり込みで祖父の看病に来ていたのです。彼は眠っている祖父の手を握り、幼かった頃の祖父との思い出を振り返りました。


 翌日、祖父の看病を終え孫が実家へ帰る途中に、列車の窓から黒部川が見えました。それは短い時間だけ目にした光景でしたが、川の中へ白い巨大な生物が入って行くところでした。

 彼はとても長くて白い色のが、押し流されているようにも思えました。でもそれは、自然の力で移動していたのではなく、生き物のとしての動き方をしていたのです。


 1週間後に、孫が祖父の死の知らせを聞くと、彼は黒部川で見た謎の生き物について誰にも話せなくなりました。孫はそのことについて、祖父にだけ教えたいと思っていたのです。













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