第4話

――そうだ。お父さんに会いに行ってみよう――


 そう思い付いたのは、大人になった今、自分の眼には父がどんな風に映るのか、気になったからだった。それに成長する過程で、たまにしか会わない父に冷たく接してきた事への後ろめたさもちょっとある。


 父の住むアパートは今も変わっていないと母は、美佐希の成人式の写真を送る時に言っていた。それも三年前の事。突然の訪問をどう思われるかという事より、もしかしたら今は別の人が住んでいるかもしれないという不安の方が大きかった。道を覚えている自信もなく歩き始めたのに、自然と足が動いた。懐かしい道は所々変化はあっても、記憶と大きく食い違う所はなかった。あんな大きなコンビニはあの頃はなかったな、とか、でもあの美容院とケーキ屋は昔もあったな、という位。



 アパートの二階に上がると、呼び出しのベルを鳴らした。反応がない。手でそっとドアノブを回してみると鍵が掛かっていた。


 一階から様子を見ていた管理人と思われる初老の男性がやって来た。もっと若い時の顔に置き換えると見覚えがある。


「新井さんなら入院したよ。お嬢さん、昔ここに住んでいた新井さんの娘さん?」


「は、はい。て言うか、入院って本当ですか?」


「そうだよ。私が入院の手続きをしたんだから。何、心配ないさ。軽い熱中症だってさ。心臓が悪くなっててそういうのも薬で治療しなくちゃいけないって。三週間位で退院できるらしい。市立病院だよ。娘さん、大人になったね。べっぴんさんになって、新井さん、来たって聞いたら喜ぶだろうな」


 突然聞いたニュースのショックと心配ないという管理人さんの情報とがぐちゃぐちゃに心の中で混ざり合っていた。でも管理人さんの平然とした態度から、入院自体は前にもあったのだろうと推測される。以前の健康そのものだった頑強な父からは考えられない事だった。


 管理人さんは、市立病院への行き方を教えてくれた。近くのバス停から市立病院行きのバスは出ている。そうだ、と美佐希は思い出した。市立病院の辺りも幼い頃、両親に連れられ、買い物に出かけた懐かしい地域だ。


 バスを降りると、街は夕暮れのはちみつ色に染まっていた。十六年も訪れていなかった街とは思えない。


 病院の入館案內で、美佐希は病室をいた。その時、関係を訊かれたので「娘です。七年位会ってませんが」と言った。でも、そこにいた受付の事務員も看護師もそこには無反応。ひょっとして、病院に来る人の中では、そして広い世の中では、こういう事は別に珍しい事ではないのだろうか。美佐希は何だか不思議な気がした。


「でもね」とベテランらしい看護師が言う。

 指し示すそこには、そこには大きく「新型コロナウイルス感染拡大防止のため、面会は原則禁止」という張り紙が。

 「今はどちらにせよ、新井さんは心臓の検査をしたばかりなので会えませんけどね。本人はしっかりされているんですよ。明日以降、申し込めば、病院のノートパソコンでリモート面会が出来ますよ」

 ではと、美佐希は翌週のリモート面会を申し込む用紙に記入した。リモート面会で、やっとあの時の泣き顔の父に素直な感情を伝える第一歩を踏み出せそうな気がした。


 土曜日の救急外来の長椅子には、さっぱりとした薄いグレーのワンピースを着た上品な老婦人とその隣で控えめに座っている夫と思われる老人がいた。老人は泣いた後のような顔。老婦人の方が美佐希に話しかけた。


「ご家族が、入院しているの? そうでなきゃこんな若い人が病院になんか来ないわよね」


「ええ。父が入院したんです。でも大した事ないって」


「それは良かったわね」


「あの……大丈夫ですか?」

 美佐希は泣いたあとのような老人が気になって仕方なかった。


「大丈夫よ。この人ったら、私が急病で病院にかかっただけで泣いたのよ。結局こんなにピンピンしているのにね」


 老人は美佐希の祖父と同じ位の年代だ。でも泣いたあとのションボリした様子は何だか可愛く見えてしまう。なんだ、男が泣くなんて、そう珍しい事ではないのか、とつぶやく。まるで学生時代、通学路のものすごく近道になる道を見つけた時のような気分だった。


***


 そうして美佐希は、住んでいる街、オフィスのある街へと戻ってきた。長い長い週末。長い旅を終えて帰った気分なのに、夕闇はまだ深くない。レトロな喫茶店、シルバースプーンへと足が向く。


 もしかしたらあの女の人がカウンター席にいるのではないかと目を走らせた。だが、そこに彼女の姿はない。


やっぱりいつものボックス席に行く。


そこで泣いてる若い男が一人。陵矢だ。


――チャラいやつがなんで泣くの――


 斜め向かいの席に堂々と座った美佐希は、「やっぱり別れるのを撤回する事にした」と宣言し、いつものメニューを頼んだ。


「ホント? でも美佐希のお母さんからオレ、たぶん良く思われてないけど大丈夫なん? まだ二人で暮らせる位の部屋に移れる自信もないけど」


「待つからいいよ」


「え?」


「だから待つって。私も努力する」


「やった! ところで誰か探してる? さっきからキョロキョロしてるけど」


「こないだ相談に乗ってもらった人が来てないかなぁと思って。常連さんみたいだったけど、やっぱりいないな。そういや、よく考えてみたらここで見たことない顔だった。もしかしたらあの人は、本当に女神様だったりして? まさかね」


「何ブツブツ言ってんの? 美佐希ってさ、時々やばいよ」

でもさっきの泣き顔はどこへやら、満面の笑みってやつで話す。



 そして運ばれてきたアイリッシュコーヒーとクッキーとサービスのアップルケーキ。いつの間にか美佐希は来年のコンテストに向けて、新時代の公園遊具を考えていた。ムクムクと新しいアイデアが湧き上がってくる。

 大人も子どももホッとできるような、昔、夢にみた公園。そこにふさわしい遊具。その周りでゆったりと時が流れていくような。  


――ふわふわしろくまのソファ?――


――三日月メロンのゆりかご?――  


――カモメと廻るクルクル透明地球儀?――


―それから……――


「缶やペットボトルのジュースの気持ちになれる大型自動販売機型滑り台は?」と陵矢。



「何それ? 変なの。いや、でもいいかもね」と美佐希。


 アイリッシュコーヒーの上の厚いクリームがいつかの雲のように見えた。スプーンで混ぜるうち、コーヒーと混じり合い、過去と未来が混ざりあう。

 カップから立ち上る湯気が魔法のように二人を包むと窓の外にはもう、しっとりとした夜のとばりが降りていた。



〈Fin〉

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逆光の樹影、ガラスのリノウ 秋色 @autumn-hue

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