第3話

 次の日は土曜日で、仕事は休みだった。美佐希は久し振りに故郷の町を訪れる事にした。

 電車で三つ目の少し大きな駅で降りるとローカル線に乗り換え、六つ目の駅で降りる。車窓からの風景は故郷の町に近づくに連れ、レモン色がかった田舎町の風景に変わっていく。あっけない位に早く目的の駅に着き、ふうっと大きく息を吐いた。この駅はあの頃は無かった。人口の増加に合わせ、停まるようになった新しい駅。

 基本、両親が別れてから美佐希が父と会ったのは、父の方から面会を求めて来る時に限られていた。裁判でそうなったのかもしれない。運動会や入学式を見に来ていた父は、洋服が何だか身体に合っていないような、おかしな感じだった。何か違うな、もっとイケメンだったはず、と過去を振り返りながらいつもそう感じていた。


 美佐希は母とここを去った日に見た最後の風景を確かめたくて、東本町二丁目のバス停を目指した。初夏の日差しは眩しくても、吹く風が心地良い。この町は海沿いのせいか、昔から暑いという記憶があまりない。通り過ぎる公園では、小さな男の子と女の子が母親と砂場で遊んでいる。

 やっと着いたバス停は昔と違い、透明なガラスのシェルターに囲まれていた。それでいて場所も雰囲気もあの頃と変わらない。ふっと昔の柔らかい心を持った少女の頃に戻った気がした。あの日は晴れているのに、空の端に、まるで巨大なスプーンで何回もすくい取ったホイップクリームのようなフワフワとした雲が見えていた。

 バス停の後ろ側の坂道も変わらない。坂の上にある銀杏の樹は昔同様、イエローグリーンの葉を繁らせて高く聳えている。

 今、目に入るものに昔の視点が混じった。車の流れ。交差点。鮮やかな画像で十六年前の風景が蘇り始めた。


 探している事はきっともっと単純な事のはずだ。いつも遠廻りしているだけで。

 銀杏の樹を見上げると、まだそこに太陽の光は差していない。自分の眼をカメラのレンズのようにその樹に向け、太陽の光が当たった画像を想像してみた。誰かに遠くから名前を呼ばれて振り向くと、樹の下に人影があった。でもカメラで言えば逆光。直接そちらにレンズは当ててはいけない方向だ。幼い美佐希は光が眩しくて直視できず、目を細めていた。その時、左から丸まった雲が太陽に被さり、風景がくっきりと視界に入ってくるようになった。そこにいたのは他人じゃない。よく知っている人。ものすごく見慣れている人なのに何かが違う。


 途端に現在の美佐希にその時の映像が見えてきた。そこにあったのは、よく知っているはずの父の、でも見た事のない泣き顔だった。


 そして徐々に思い出してきた。

 追いかけてきた父の泣いている姿に愕然とした事。それを認めるのが怖くて、「行くわよ」とバスに向かう隣の母に何も言えないままバスに乗り込んだ事。本当は憶えていたのに、今まで記憶の底の深い所に眠らせ、見えないようにベールを被せ、さらに厚いガラスのケースに仕舞い込んでいた。なぜならお父さんはいつも強くて頼もしくて、口ではいつも大丈夫だと大見得を切って、一緒にいると夢のような魔法も叶いそうに思えたから。それにおじいちゃんやお母さんの親戚は皆、いつも、男は泣くものじゃない、男が泣くのは親が死んだ時だけ、と言っていたから。

 今、心の中の厚い硝子張りが割れた音を聞いた気がした。



 そして美佐希は、昨晩シルバースプーンで隣の席の女の人の言った言葉を思い出していた。


――……癒やされたいのは子どもだけじゃないでしょ? 子どもの側からしか物事を見ていないようだと……――



 子どもの側から……か。それはこういう事なのたろうかと思った。


――そうだ。お父さんに会いに行ってみよう――



            ――第4話へ続く――

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