第3話 初めて。

帰り道、塾長が逃げ出さないように2人で連行して塾長の家がある近所まで一緒に行く。

その間に塾長がポストに入れて居たものは遺書だと奥さんが教えてくれた。

お金を残すから新しい人生を生きて欲しいという内容と謝罪が書いてあったらしい。




翌日、私は塾長と海に行った。

お金に余裕が無いからと鈍行を乗り継いで八景島の海の公園まで出かけた。


行く間、塾長は色んな話をしてくれた。

景色に由来する話や逸話。

知っている知識は人に教えたい教師の鑑のような人。

海の公園ではベンチに座って海を見ながら思いついた事を話をしてくれた。


その中でも聞いていて苦しかったのは「妻には一度フラれて居るんです。それも仕方のない理由です。でも私は拝み倒して、妻の両親からは塩をかけられましたが最終的に妻は私を選んでくれた」と言う話だった。

元は昨夜は帰宅してから奥さんに怒られたかという事を聞いた所から始まった話だった。


「妻と私はバイト先で会いました。私は何度も自分で納得ができないと感じると仕事を辞めてしまい、繋ぎでフリーターもしていました。小柄で保育士志望。そんな妻とはすぐに仲良くなりました。九つの年の差は気になりません。ですが私には問題がありました」

「問題…ですか?」


「生殖能力がありません。若い女性に話すとセクハラですかね?18の頃に病気で…私は子を残せません」

愕然としていると間を埋めるように塾長は話を続けた。


「妻は保育士を目指す程子供好きで子供を目一杯愛したいと夢を語ってくれました。そこで私はその夢の手伝いはできないと告げて…」


海を見て深呼吸をした塾長は「だから私を振ってくださいと頼みました」と言う。

何歳の時だかわからないが、きっと今の私よりも歳は上だろう。私は同じ歳になった時、同じような生き方はしているだろうか?


「妻は泣きながら私を振ってくれました。ですがその後も妻とは連絡を取っていた。

最後の仕事をする時にやはり子供は必須なのかと聞いてもしも必須でなければ前は自分から振ってくれと言ったがやり直せないかと頼みました。そして子も成せない、九つ上の脱サラ予定の男が顔を出したので妻の両親からは塩をかけられました」


情けない困り笑顔の塾長。

返事に困ってしまうと塾長が小腹が空いたと言って一度売店でお菓子を買って食べた。



また海に戻ると塾長は「お金は怖い」と呟いた。


「妻はここ数ヶ月で豹変した。優しかった妻が顔を歪めてお金の心配ばかりをする」

それはわかる。

きっと私が沖田塾に来た頃は経営も順調で利益も出ていただろう。

きっと塾長について行って間違いではなかったと余裕すらあったと思う。


「だから…彼女の夢を奪って更にお金で困らせた私には死ぬしかないと思いました。若い頃に付き合いで入った保険があって払込は塾経営の事があって早々に済ませてあるんです。後は死ねばお金が残せる。少し遅いけどコレで人生をやり直してほしかった。子供を産める相手と結ばれて子供を授かって幸せになって欲しい」

そう言った塾長の儚げな顔を見たとき、急に惹かれていた私がいた。



その後は無茶苦茶だった。

無茶苦茶な理由…言い訳や詭弁を自分の中で並べて理論武装をする。


何遍も何遍も…

ここで支えないと塾長…優人さんは死んでしまう。

今の奥さんは心に余裕が無いから無理だ。優人さんを支えきれない。私しかいない。

そう言った私は「…優人さん」と呼びかけた。


突然名前を呼ばれて驚いた顔の優人さんは私を見て「天宮さん?」と聞き返してくる。


「私が優人さんを支えます。生きてください」


沈黙と静寂。

波の音と子供達のはしゃぐ声、バーベキューをして酒を飲む陽気な人たちの声。


「急に…どうしました?」

「急は迷惑ですか?一緒に働いてきて、普通じゃあり得ない苦労を通してあなたを見てきました。今の話を聞いてより人として尊敬しました。死んでほしくないです。だから奥さんが居る事を抜きにして支えます。生きてください」


私の告白に優人さんは真剣に向き合ってくれた。

そして私が傷つかないように優しく言葉を選んで断りを入れてきた。


なら死なないで

生きると言って


そんな言葉を何回も何回も訴えかけた。

それでも優人さんは死に関しては返事をしなかった。

愛する奥さんにお金を残したいと言ってきかなかった。


私には「こんな素敵な女性から言葉を貰えるなんて私は幸せ者です」と言ってくれた。



何が何でも生きて貰いたかった。


途中から更に無茶苦茶な事を言った。


「死ぬならキスをして。思い出をください」


この言葉に優人さんは優しい嘘をつく。

「わかりました。降参です。死にませんよ。帰りましょう」


めげずに私は「優人さん、私がお昼を奢りますから中華街に行きましょう。お腹空きました」と言って手を引いた。


電車を乗り継いで中華街に出る頃には優人さんは塾長の顔になっていて「横濱媽祖廟」について教えてくれた。

「天后宮」の文字を指差して「天宮さんのお名前ですよ」と言う。


お参りをした時、これ見よがしに「優人さんが長生きしてくれますように」と言った。


お昼は特定のお店に入らずに肉まんなんかを食べ歩く。


「私、恋人がいたことが無いので初デートです」

「え?天宮さんは慣れた感じだからてっきり学生時代にお付き合いした方がいたのかと思いました」


「私、身持ちは固い方なんです」

「そうですね。ですがあの素敵な笑顔を見てしまうとよく今まで男性が黙っていたのか不思議ですね」


そんな話をしながら中華街を歩き、山下公園まで行き、再びベンチでのんびりと海を見る。


カモメの鳴き声を聞き、水平線を見ながら「生きてくれますか?」と聞くが、この問いに優人さんは何も答えてくれない。聞こえないふりをして誤魔化す。


私は意を決して優人さんの手を引いて歩き出す。

「天宮さん?どうしました?」


私はその問いを無視して歩いていき、カップルが使うホテルを見つけると勢いをつけて中に入った。


必死に抵抗する優人さんに「恥をかかせないでください」「嫌なら何もしないで良いですから中に入りましょう」と言って部屋に連れ込んだ。



自分にこんな積極的な面があるなんて思いもよらなかった。

だが部屋に入りベッドに腰掛けて横に優人さんを座らせると途端に心臓が飛び出すくらいドキドキとしてきた。

横の優人さんに聞かれそうで心配したが優人さんは困り顔でこの状況の落とし所を探していた。



それでも最後は押し通す形で抱いてもらった。

死なないならこのまま何もしないのも構わないが死ぬ気が残って居るのなら抱いてくれと言った。


初めてのデート、初めてのキス…。

初めては全て優人さんに捧げた。


優人さんは沖田塾の一件で数ヶ月ぶりだったらしく、私の願いに従って一度ではなく二度三度と抱いてくれた。


幸せな気持ちに浸りながら最後には抱いてもらっておいて「死なない」って約束をさせた。



遅くなってはいけないからと帰り、途中の焼き鳥屋で「奢ります。一杯付き合ってください」と言って焼き鳥を数本食べた。

本当なのかよくわからないが「昔同僚に聞きました。シャワーを浴びるのは悪手でこういう時は焼き鳥を食べるんだぞと…。まさか自分が実践するとは思いませんでした」と優人さんは言っていた。


私が降りるのは沖田塾のある駅ではないので電車の中で優人さんと別れた。

「死にたくなったら呼んでください。お支えしますからね」

暗に死にたくなった時に女性を求めてくれるならいくでも付き合うという意味で優人さんには伝わったと思った。


「ありがとう天宮さん。そうならないように気をつけるよ。私と君の人生はこの電車のように降りる駅が違う。君は君の駅を目指してください」

私はこの駅で降りる事も問題ないと伝えたが返事をもらう前に扉は閉まって儚げな笑顔をした優人さんは手を振って見送ってくれた。

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