「はぁ……はぁ……はぁ…………うっ……」

 薄暗い空間に、荒い呼吸音と呻き声が響く。


 ずるっ……ずるっ……ずるっ……


 橋場は身体を引きずるようにして進んでいた。

 そっと振り返ると、自分の後ろに赤黒い筋がずっと続いている。

「うっ…………」

 己の血液が描いた軌跡を見て、橋場は呻いた。激痛の走る右足を押さえ、その場で立ち止まる。


 血に染まる右足の、足首から先はなかった。

 橋場がナイフを使って、自ら切り落としたのだ。

 そうでもしない限り、右足首を固定していた鉄の輪から逃れることができなかった。

 だから橋場は、砂をかき分けて自分の足を露出させ、刃を食いしばって何度もナイフを突き立てた。

 肉を切り裂き、刃を小刻みに動かして腱を断った。

 噴き出る血を見ながら激痛に耐え、何度か気絶しそうになりながらも、最後は渾身の力で骨を砕いて、足首を切り落とした。


 それから上に着ていたシャツを包帯代わりにして止血し、両手と左足を使ってそり立つ土壁を登った。

 途中で手が滑り、降り積もる砂の上に落ちたこともあった。そのたびに、血まみれの右足に激痛が走る。

 だが、橋場は諦めなかった。

 ただただ、生きたい――その執念だけで壁をよじ登り、なんとか上まで到達したのだ。


 壁を登りきると、そこはがらんとした広い部屋だった。

 大きな倉庫のような場所だ。橋場が先ほどまでいた筒状の空間は、この倉庫の中に作られていたものらしい。

 灯りはなかったが、どこからか光が漏れてくるので真っ暗ではなかった。

 橋場はその光のみなもとへ目をやった。十メートルほど向こうに、大きな引き戸がある。

 四角い扉の隙間から柔らかい光が差し込んでいるのを見て、太陽の光だ、と咄嗟に思った。


 あの扉を開ければ、外に出られる。そこがどこか分からないが、ここよりもずっといい場所に違いない。

 とにかくこの薄暗い場所から一刻も早く出て、明るいところに行くぞ。

 橋場はそう心に決めて、再び歩き始めた。


 ずずずっ……ずる……ずずずっ……


 先端のない血まみれの右足を引きずって、一歩一歩進む。

 身体を動かすたびに纏わりついていた砂粒があたりに飛び散り、切断面から流れ出る血が床にどす黒い線を描いた。

 傷口の痛みが全身を駆け抜け、何度も刺されているように感じる。


 気を抜くと意識が飛んでしまいそうだった。

 だが、あと少し。あと少しだ。

 あの扉まで行ければ、きっと俺は助かる……。

「……ああ」


 扉まであと二メートル。

 橋場は肩の力を抜いて、手を伸ばした。

 だが、指先が触れる寸前、妙な感覚に包まれた。何もないところに投げ出されたような、浮遊に似た感覚――。


「うわっ……」


 落ちている――と気付いた瞬間、身体に軽い衝撃が走った。

 途端に、異様な臭気が鼻をついた。仰向けに横たわる橋場の目に、ぽっかりと開いた四角い窓が映る。

 いや、窓ではない。あれはおそらく、先ほどまで立っていた床だ。

 引き戸のすぐ傍の床。その一部が急になくなって、橋場は下に掘られていた穴に落ちたのだ。

 四角い窓……いや、床の開口部は、はるか上にあった。橋場のいる場所まで光があまり届かず、周りがよく見えない。


 穴から抜け出したと思ったら、また穴に落ちた。どういうことだ。これは何だ。ここは一体、どこなんだ……!


 あまりのことに、橋場は仰向けになったまま、ただ茫然としていた。

 だが、しばらくして気付いた。身体の下に、何か柔らかいものがある。

「うっ……」

 それが何なのか分かった瞬間、呻いた。


 橋場が横たわっていたのは、降り積もるおびただしい死体の、一番上だった。




          END

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吉作落とし2022 相沢泉見 @IzumiAizawa

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