降り積もっていく砂は、もはや死へのカウントダウンだった。静かに、だが確実に……橋場の息の根を止めに来ている。

「嘘だろ……」

 両方の目から、熱い雫がとめどなくしたたり落ちた。

 橋場はまだ自由な両手でそれを拭った。そのうちこの手も砂に埋もれて、身動き一つ取れなくなるに違いない。

 はぁーっ、はぁーっと、洗い呼吸を繰り返す。差し迫る死への恐怖で、腰が抜けてしまいそうだった。


 震えながら目を閉じると、脳裡に田舎の母の姿が浮かんだ。

 子供のころ、母はよく寝しなに絵本を読んでくれた。日本の昔話や、童話の本が多かったように思う。

 中でも、橋場は少し怖い話が好きだった。鬼やお化けが出てくる物語もいいが、一番怖いと思ったのは、意外にも人間しか出てこない話だ。


 タイトルは『吉作きっさく落とし』。

 主人公は、山で茸を採って生計を立てている吉作という青年である。

 ある日、この吉作は縄を使って絶壁の途中にある岩場に降り、茸を採る。しかしそこで不慮の事態が起こり、崖の上に戻れなくなってしまう。

 吉作が岩場にいることは周りの誰も知らない。ほぼ着の身着のままの青年は、崖の中腹で一人、どうすることもできなくなるのだ。


「まるで、今の俺にそっくりじゃないか……」


 橋場は自嘲めいた笑みを浮かべて呟く。

 崖の中腹で、吉作はただ、死にゆくのを待つしかなかった。

 幼いころの橋場は、じわじわと追い込まれていく吉作の気持ちを思い、身震いした。吉作が助けを求めて叫ぶシーンでは、心の中で一緒に叫んだ。

 全く同じではないか。今の自分と。

 助けを呼んでも誰も来ない。できるのは、落ちてくる砂の音を聞きながら、ただただ埋もれていく身体を見つめることだけ。

 吉作と自分の姿が、橋場の頭の中でぴたりと重なった。物語の最後、吉作はどうしたのか……。


 思い出そうとしたとき、羽織っていた上着のポケットに偶然手が触れた。

 ゆっくりと中を改めてみると、そこに入っていたのは一本の折り畳みナイフだった。柄についているボタンを押すと、銀色の刃が勢いよく飛び出してくる。

 ところどころに傷が付いていた。先ほどこのナイフで右足を固定している鉄の輪を外そうとして、刃こぼれを起こしたのだ。

 結局、鉄の輪にはちっとも歯が立たなかった。

 ――だが『鉄ではないもの』が相手だったら?


 橋場はナイフを右手で持ち、左手の小指の腹に刃をスーッと滑らせた。そこにはたちまち筋が入り、赤い血が流れ落ちてくる。

 再び、橋場の脳裡で吉作と己の姿が重なった。

 物語の最後、吉作は岩場から飛び降りる。そのまま、崖下へ真っ逆さまに落ちていく。

 死への恐怖と散々戦ったあと、もしかしたら助かるかもしれないと考えたのか……それとも苦しみに耐えられなくて、いっそのこと死にたいと思ったのか……。


 橋場の手元にある、銀のナイフ。

 これで頸動脈を切るか、心臓を刺し貫けば一思ひとおもいに死ねる。

 今なら、崖から飛び降りた吉作の気持ちがよく分かる気がした。

 あと少しで死ぬかもしれない――いつまで続くか分からないその恐怖と戦うのは、もう疲れた。

 窒息死はとても苦しいと聞く。あと少し経てば腕まで砂に埋まり、ナイフさえ使えなくなるだろう。

 やるなら今しかない。砂に埋もれて無様にもがくより、いっそこのまま……。


 橋場はごくりと喉を鳴らして、ナイフをゆっくりと首元に当てた。

 キラリと光る刃に、恐れおののいている自分の顔が写った。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る