第1章 風読みの少女

 残暑の日差しにあえいでいた9月が明け。


 カレンダーをめくり、ようやく少し涼しくなった、と一息ついた途端に、気温が急降下した。


 寒暖差の激しい高原地帯では、よくあること。


 頭では分かっていても、いきなりの寒さに、気持ちはついて行かない。


 まして、元々心も体も繊細な金井かない麻友まゆは、その落差の影響をダイレクトに受けて、当然のように体調を崩してしまった。


 それもまあ、毎年の恒例行事みたいなものだ、と隣に住む同じ年で幼馴染みの藤堂とうどう亜衣あいは、素直に納得する。


 こちらは頑丈さが取り柄の、あまり物事を深く気にしない大らかな性格。


 繊細であるがゆえに些末事さまつごとを気にしがちな麻友だったが、亜衣といると不安が和らいだ。


 うちに込めがちな心配事も、亜衣には素直にさらけ出せた。


 亜衣の方もそれを負担に思う様子は見せず――実際に全く負担には思ってはいなかった。


 お互い一人っ子で、誕生日も近くほとんど生まれた時から一緒の姉妹のような麻友に対して、妹を守る姉のような気持ちが自然と育まれた。


 もっとも、生まれたのは麻友の方が半月ほど早いのだが。




「ぶぁいぃー、どどがわいだぁ」


「何言ってるか分かんないよ、麻友」




 そう言いながらも、亜衣は手元のペットボトルから中身をコップに注ぐ。


 その様子をみながら、麻友は軽く体を起こす。


「もう。そんなに動けるなら、自分でやりなさいよ」


 不平を口にしながら、亜衣はコップを麻友に手渡すと、換気のために窓を半分ほど開ける。


 冷気を孕んだ、けれど心地よい風が吹き込む。


「明日はまた少し気温が上がるみたいだし、学校行けそうだね」


「ん……多分」




 ぬるいスポーツドリンクをコクコクとゆっくり飲み下しながら、麻友は言葉少なに返答する。


 体調を崩しやすい分、回復の経過もある程度予想が立つようになってしまった。


「週末がかぶってよかったね。あんまり休まなくて助かった」


「うん、そうだね」


 今度ははっきりと返答した麻友を振り返り、亜衣は困ったように笑う。




「……あのね、麻友に合わせて私まで休むわけにはいかないんだよ?」


「分かってる。金曜日は、ちょっと……落ちてたから」




 喉を潤して幾分聞き取りやすくなったが、その声は尻すぼみに小さくなる。


 体調を崩して麻友は高校を欠席したが、健康そのものの亜衣は普通に登校した。


 高校2年生、17歳の少女には、ごく当たり前の日常。


 けれど、自宅にも寄らず亜衣が麻友の部屋に行くと、熱であえぎながら、淋しかったと泣いている幼馴染みがいた。




 決して両親が彼女を放置したわけでも、その愛情に飢えているわけではない。


 むしろ、大切な一人娘として十分すぎるくらいの愛情を注いでいる。


 けれど、麻友の執着は、亜衣に向かう。




「明日は、一緒に行く」


 分かっている、と言いながら、言外げんがいに『一人にしないで』と告げる麻友。




「うん、一緒に行こうね」


 安心させるように、麻友の頭をなでて、亜衣は微笑む。


 それから思い立ったように、ベッド脇の鏡台からヘアブラシを持ってきて、麻友の髪の毛をかし始める。


「髪、汚れてるから、いいよ」


「あとで、サッとお風呂に入るでしょう? 洗う前に、少しブラッシングしておいた方が、洗いやすいからすぐ済むよ」


 背中の半ばまである少しクセのある髪の毛を、亜衣は丁寧にくしけずる。


 ふんわりとした色素が薄めの猫っ毛は、無造作に扱うと切れてしまう。


 ここ数日入浴できていないが、昨日亜衣が梳かした後に蒸しタオルで拭いてあげていたため、本人が言うほど汚れてはいない。


 櫛目を通して髪を整えると、病みやつれた麻友の相貌が、たおやかさに変わる。


 くせひとつない黒髪、というと聞こえはよいが、体と同じく頑丈なほど真っ直ぐな直毛の自分にはない美しさ。


「亜衣も、もっと伸ばせばいいのに」


「えー、私の髪は扱いづらいから面倒だもん」


 半端に切ると収拾がつかないから一応結べる程度には伸ばしているが、肩の下あたりでいつも切りそろえてしまう亜衣の髪の毛に、麻友は手を伸ばす。


「そんなことないよ。きっと、似合うよ」


 愛おしげに、そっとなでて。


「亜衣は、綺麗だもん」


 熱を込めた麻友の眼差しを受けて、亜衣の頬が少し赤らむ。


「そんな、麻友のほうが、ずっと」


「そんなこと、ない…………あ」




 はにかむ亜衣に向けられていた麻友の微笑みが、突然、歪んだ。




「麻友?」


「……亜衣、窓、閉めて」




 震える麻友の声を聞き終わらないうちに、亜衣は小走りに窓に駆け寄りピシリと閉めた。








「……風が…………てる」








 青ざめて呟く麻友の震える肩を、その言葉の意味も分からないまま、亜衣は両手でぎゅっと、抱きしめた。

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