第5話 誰かにとっては大切なもの

 春先の十八時はまだ陽も高かったが、冬の名残か肌寒い風が桜を散らしていた。厚めの赤いダッフルコートを着た私は、道行く人を避けながら散る桜を全身に浴びて住宅街の奥までいくと、人知れず人気のない場所に出た。駐車禁止の看板が立ち塞がるも無視し、しばらく歩くと竹林が目の前に現れた。大学の裏手にある門は滅多に使われることはなく、竹林を突っ切る形で舗装ほそうされた道の先にある。いわば、知る人ぞ知る小さな門だった。


「よう、やっと来たな」


 門に寄りかかって待っていたのは、当たり前だが私を呼んだ張本人である倉橋先輩だった。春物の服を着ているが、なんだか少し寒そうに腕をさすっている。


「先輩その格好寒くないですか」


「ああ、やっぱりまだコイツの出番には早かったみたいだな」


 腕をわざとらしく一層速く擦りはじめた様子を見て、私は思わずくすっと笑ってしまった。

 倉橋先輩は私が笑ったのに安堵あんどしてか、ほがらかな顔を見せる。


「そしたらよ、こんなとこに二人きりでいても寒いし誤解されるだけだし、早く行こうぜ」


 倉橋先輩は私が横に並ぶのを待つと、ゆっくりとした速さで門から大学を後にした。

 舗装されたアスファルトの道路には桜の花びらがそこかしこに散りばめられ、ほかの国ではまず見られない日本独特の景色が広がっていた。スペインから日本に来た私にとって、この光景はまだ見慣れたものではない。散るから桜は美しい、と日本の友達に言われたことがある。私はその感覚がよくわからず、そのときは「綺麗なら散らないほうがよくない?」と返してしまったが、時間がきたら消えてなくなってしまうはかなさ、というものを私も段々と理解し始めていた。

 この景色は、道路もなかった時代からきっと続いてきて、様々な人の目に触れてきたんだろうなあと思うと、感慨深いものを殊更ことさら感じるようになった。

 木々の隙間から射す陽に影が照らされ、そこにだけ陽だまりができる。別になんの変哲もない、静かな桜の道。


「下ばっか向いて──昨日のこと、怒っているのか」


 私は驚いたように倉橋先輩を見上げた。どうやら道の桜に夢中になって俯いていたのを、怒っていると勘違いしたようだ。二人の歩みが止まり、アスファルトの道の途中で互いに向き合う。その距離は手を伸ばせば触ることができそうな距離だ。


「え、ええ。そうですとも。私、怒っています」


 ちょうどいい機会だと、話に乗っかってみる。すると、思いの外落ち込んだようだったので、すぐさま「じょ、冗談ですってば」とフォローしておいた。


「そうか、ならよかった」


 優しく微笑んだその目を真っ直ぐに見ていられなくなって、私は一度目を逸らした。

 一度逸らして、もう一度目を合わせた。倉橋先輩は不思議そうな顔で首を捻る。「面白いやつだな、ふみは」と言うと、倉橋先輩は視線を前に戻してまた歩き出した。その後を追うように私も小走りで横に並ぶ。先程までの会話が途切れ、互いに目を合わせないまま数分が過ぎた。

 桜が散る様子を見て、あと何回、この景色を倉橋先輩とこんなふうに並んで見れるのだろう、と私は不意に考えた。先に口を開いたのは私だった。


「……少し、考え事してました」


「考え事?」


 今度は歩みを止めず、私は視線を前に固定したまま質問に答える。


「別に何の変哲のない物でも、誰かが大切にしていたこととか、好きだったこととかを想像するんです。そういうのに思いけると結構楽しいものですよ」


「わかる。高校の教室の壁に小さく傘の絵と知らない男女の名前が書いてあったりな」


「そうそう、そういうのですよ。知らない人からしたら落書きにしか見えなくても、その二人にとっては大切なものだったんですよ、きっと。他にはありますか」


「昔、その陽だまりの下で男が女に告白した、とかか」


 何て恥ずかしいことをさらりと言うんだ。しかもいまの私たちはその状況に酷似している。異様な緊張感が張りつめて、胸をつぶすように痛い。ねぇ、この気持ちは私だけなの?


「想像、ねえ」


 倉橋先輩は、先ほどまでの調子はどこへやらといった具合に、空を見上げてボソリと呟いた。

 空は茜色に染まりつつあった。夕焼けが西の空を追いかけるように動き、辺りは夕闇に満たされはじめる。


「俺、昨日ふみに言いすぎちまった。ごめん」


 倉橋先輩は立ち止まって体の正面を私に向けると、頭を下げて謝りだした。

 私は頭を下げてなんかほしくなかったが、倉橋先輩は頭を下げ続けた。


「ふみに言われてから気付いたよ。俺はずっとハッピーエンドになることばかりを目指してストーリーを練っていた。でも、そうじゃないよな。ふみの言う通り、不幸や悲しみが消えないときだってある。そんな簡単に悲しい気持ちが晴れるほど、人はできちゃいない」


「先輩、私……」




「ふみ。俺はお前の病気のことは、知っている」



 私は、倉橋先輩に伸ばしかけた手を止めた。

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